ひとり、南へ
誰もいない。クルマもヒトも。漁船も。ボクと自転車だけが快走する。寂しくない。気分がいい。これは気持ちがいい。ボクが思うに、そう感じられるかどうかが、「ひとり適性」なんだと思う。ボクには「ひとり適性」がある。こういう場所で、さびしいと感じるよりも先に、気持ちがいいと感じられるのだから。ここで間違えてはいけないのは、それは適性であって、ヒトの個性の一種であり、良い・悪いで論じるものではない。好き・嫌いで判断されるものでもない。しかしどうだろう、学校なり会社なり、ヒトの集団生活のなかで、集団に帰属させようとする圧力が最近とみに強まってきた風潮。ヒトが「ひとり」でいることを集団は嘲笑のタネにし、「ひとり」でいるヒトを集団は排除しようとする。「ひとり」が悪くて集団に混ざらなければいけない、なんて法はない。断じてない。集団はやり方が卑怯。「ひとり」好きなヒトは、ただ放っておけばいい。迷惑かけるわけもない。なのに、わざわざ集団が「ひとり」にちょっかい出す。追い詰める。陰湿ないじめというヤツだ。諸外国の社会では個性を尊重することができるが、日本社会とうムラ社会では、できない。まだ、できない。選択的に集団で発達してきた農耕民族の集団帰属特性が、無意識な強迫観念として、そうさせるのか。そんな本能は、少なくとも現代の生活者にとっては、生きていくのに、もう必要はない。集団で同じ方向を向く必要がない。まして個性を攻撃する必然性もない。それは誰もがわかっていること。不要な本能を、新しい理性が律することができるか。「ひとり」という個性を認めることができるか。日本人の未来に向かうための変化の力が、いま問われている。自分の世代ではできていなかったので、ボクは次の世代に、きちんと伝えていきたい。