謎の歩道
その道は、突然、立派な歩道を持った。こんな山の中で。路側帯と歩道をあわせた幅は、車道1車線より広い。ここまで、ありえなかった風景。そして、この道は大規模な切り通しや土盛りを作ってまで道をまっすぐ平坦に通していた。明らかに、金がかかっている。なぜだろう?しばらく走るとその謎が明らかに。看板だ。大手不動産会社が大規模に開発分譲している、一大リゾートタウンだった。この豪勢な道の作り方は、過疎にあえいでいると思われるこの地元自治体も乗り気と思われる。このあたりにしては気候が温暖で、積雪量が少ないから、住みやすい。リタイヤ後の終の棲家を探す小金持ち老人を中心に誘致するモデルだろう。新しく、都会的な、別荘街的な、地名ブランドを確立しようとしているように見受けた。走っていると、やがてポツリポツリと、美容室やカフェなど、およそ、このあたりの集落にはまったく似つかわしくないオサレな店があった。デヴェロッパーの本気度をかいま見る。おそらく、破格の好条件で、まず先にオサレ店を誘致しているのだろう。分譲は、売れているのだろうか?いや、この人のなさは、売れてなさそうだ。これから売れるのだろうか?いや、わからない。誰もいない広い歩道をボクは自転車で走る。この歩道を、リタイヤ組が大型犬とゆっくり散歩をしている優雅な風景は、どうしてもボクには想像できなかった。いろんな意味で”よい場所”に、いつもまにか人たちが寄り集まって、自然発生するのが”街”だと思う。デヴェロッパーは、魅力的な街を、ハードウェア開発によって、作為的に作れると思っている。ボクに言わせれば、傲慢だ。確かに、いくつかの街の誘致は、当初は成功したのかもしれない。しかし、それは当初だけ、一瞬の出来事。引っ越し、買い換え、住み替えという新陳代謝がそう簡単にできない不動産。たとえば、首都圏で高級住宅地と言われる場所はどうなったか。総じて金持ちは、食事や医療に金をかけることができるので長生きだ。だから住民がいなくなることによる空き地は、そうそう、発生しない。だから、老人の街になってしまう。街の魅力は老人住民には、維持できない。魅力は右肩下がりとなる。街の住民は、老人から若者に、切り替わっていかなければならない。必要な新陳代謝、といえる。街が新陳代謝するには、これからの時代の変遷を見越して、分譲開始当初から、余裕をもって設計することだ。たとえば。当初から、すべての区画を分譲して投資回収しようとするのではなく、数十年後の余裕を残しておく。具体的には、格差社会と少子化のなかを生き抜いて、家を持てる一握りの有望な若い世代に居住してもらうために、トッテオキのお買い得区画を、公園や遊休地として残しておく。とか。今の不動産開発業者は、これまでの街作りの発想から変わっていかなければならないのは確か。時代が変わっているのだから。この作為的な街の未来は、それにかかっている。