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桓武の天皇就位で百済人が日本天皇の座を奪い取ったのは史書にも明白。 称徳天皇が死んで、次の天皇を決めようとして、吉備真備などは天武系の 文室の浄三(超高齢)を推しますが(主流)、藤原の百川の練りに練った策略で 白壁王(天智系)で皇統譜にある光仁天皇を推挙します。 次いで、(井上内親王{廃皇后}および(他戸廃太子)を陰謀で抹殺して、百済系の高野新笠 (その子、山部親王)の系統を目論み、此処に天武系は100年に及ぶ時代を閉じます。 このあたりの歴史は、今なら、噴飯物のでっち上げ、ほらの筋書きですが、それが罷り通った 時代が、何となく朝鮮王朝の歴史に瓜二つです。 百川自身、百済系と思われるのは、名前の百ですね。 彼ら、渡来人と称されるものには、日本の皇位などは、お手軽に手に入れられたでしょうね。 故国の朝鮮では、貴族(王位も左右する陰謀に長けた者たち) がいたが、日本には いない、古来から列島へ行き着いていたのは圧倒的に百済系で、天武の新羅系は数的に 比べようがないほど劣勢だったから、百済の思いのままな政権が誕生できた。 まあ、彼は現皇室にとっては、偉大な功労者とでも言うべき存在、将又恨めしい 人物でしょうか。 民衆などと言う物は、当時存在せず(風評も生まれない)、宮中での切った張った、 狡知に長けた者が勝つと言う、実に貧しくも愚かな権力ゲームであったようです。 朝鮮民族が、幾ら日本をバッシングしようが、汝らと同じDNAを持つ天皇家の為した 行為を誹謗中傷するのは、天に唾すると同じ事と知るべきであろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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