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日記 失敗は 2020年11月3日(火曜日) 失敗すれば誰でも心が折れます。 どんな失敗でも「よいしょ」と乗り越える気力が必要です。 日本人って失敗に弱くなった気がします。 でもね。失敗は成功のもとと言いますからね。 失敗はご自身で笑い飛ばすくらいでないと前へと進めません。 私の失敗談は枚挙にいとまがないくらいありますが、そそっかしいのも私の個性だと、今では諦めています。 意外と失敗談って後で笑えるお話が多いと思いますから、気力で頑張ってください。 世見 武田信玄 2020年11月3日(火曜日) 武者と言われる人の中で、私は武田信玄が何故だか大好きです。 甲斐の武田氏は、清和源氏の流れを汲む名門です。 武田信玄は「甲斐の虎」の異名で知られていますが、甲斐の国の十九代目当主です。 武田信虎の子として生まれた信玄でしたが、重臣達の支持を受け、父を追放して、武田氏の当主になりました。 砥石崩れという大敗を体験するものの、信濃国をほぼ平定しました。 川中島で初めて上杉謙信と交戦。 この翌年には、駿河の今川、相模の北条氏との間に同盟を結び、1555年から1561年にかけて、上杉謙信と三度川中島で戦いましたが、ついに決着はつかずじまいです。 桶狭間の戦いでは、今川義元が斃れると三国同盟を破棄、駿河に侵攻しました。 北条家との同盟を回復するころには、武田信玄の石高は120万石になっていたのです。 三方ヶ原の戦いでは、家康を破るもその後体調を崩し、信玄は急死してしまいました。三方ヶ原の戦いは信玄を急死させるほど苛酷な戦いだったのでしょうか。 武田信玄は二万五千の軍勢を率いて、徳川家康のいる遠江へ攻め入りました。 1572年12月のことです。 徳川勢は自らの軍勢八千に加え、信長の援軍三千に過ぎなかったのですが、家康は浜松城に籠城するのではなく、野戦を選択したといいます。 12月22日、家康は自ら兵を率いて三方ヶ原へ進軍し、武田勢と激突。 この戦いは2時間足らずで決着が付き、家康は大敗を喫してしまいました。 この時の犠牲者は一千余人にものぼったといいますから悲しいことです。 もしも、武田信玄が後10年生きていたら、日本の歴史は大きく変わっていたことでしょう。
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Last updated
2020.11.03 00:31:01
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