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カテゴリ:物語り
牟婁(むれ)の編 (498年) ★ 牟婁の国(木浦がその都)には、王がおらず、倭国からの国守が 自由国家である。他方で、狭隘な山地で稲作を、倭人、韓人、または それらの混血が耕作している程度であって、他国が侵略する価値なしとも言える。 百済化を図っているという。いわば、北からのドミノ倒しのような流れである。 +++++ とする錦江の上流の、狭い公山城に移った。倭王が兵を率いて漢城を襲ったため 百済が壊滅を免れたことは随分前のことである。 ---------- (*)白村江では、これから約160年後に有名な、白村江の戦い: 「復興百済+日本国」VS「新羅+唐」の戦いが起こっている。 「新羅+唐」軍は、「復興百済+日本国」軍に複雑な海域で勝利し、 また、高句麗をも滅ぼしてしまう。日本が敗戦した歴史がここにある。 ただし、海外での敗戦である。日本が国内外ともに外国に敗戦したのは、 第二次世界大戦であった。 ---------- +++++
新王・雲は再び百済を討たんと、まず、百済に加勢している太宰府を 配下にするべく、大使節団を送ったのだが、太宰府は冷ややかに、 これを拒否した。 ★ とることもできず、倭国は百済王が密かに要求する南下の境界線を 密約の条件は、羅州以北を百済へ割譲し年賦を受け取る、 両国が人質を交換する事であった。ただ、伽那国のために百済と戦う 姿勢だけは見せないといけない。 ★ 木浦に上陸し、羅州城を陥落させたものの、百済本隊との睨み合いとなった。 ・・・ (*)物部氏などの、同名の豪族は倭国や大和にもいるが、倭国の豪族が分家したもの で、本家は分家を潰そうと虎視眈々としていると言う。 ・・・ 睨み合いは、倭王と百済王の内密の謀議に、ほぼ沿った「早期休戦」であった。 かくして、高句麗王・雲の南進のチャンスは失われた。 ・・・・・ 脱線・・多島海の複雑な潮流に絡んで・・ 今年になって、木浦の沖では、人為的な大型フェリー客船沈没事故が 起こっている。日本で運行していたフェリーの上層部を拡張し、船の 復元力を失わせ、また、船内の客室を細かく区分け、避難行動を 困難化させたこと、船内救命ボートの取り付け部分が錆び付いて 使用不可能になっていたこと、船長・船員が避難訓練をしておらず、 乗客には船内待機させて自分たちだけが逃げ出して、乗客の溺死を 放置させたこと・・・これらは海の男のなせる業でなく殺人罪として 世界に報道された。利益優先、人命軽視が、古から危険な潮流が 支配する海域で起こったことに小生でさえ驚いている。
・・・ (呆けの写経は続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Apr 29, 2020 06:41:54 PM
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