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カテゴリ:物語り
樟葉(くずは)の編(507年)
★ 大和の大王家に娘を代々嫁がせてきた息長家は、 三輪山の麓に息長邑を構えている。戸数は2百ほどで、 王家に嫁いだ息長の媛たちが何一つ不自由をしないように 邑人達が住み着いて賄っている。ここにきて真手王の娘・ 麻績娘子(おみのいらつめ)が、幼い武烈天皇に嫁ぐことが 決まったために、その準備を段取りよく進めている。 ★ 息長家の宗主・真手王が、男大迹王を息長邑へ誘った時のことである。 ・ ・ ・・・ ・ ・ 摂政・春日大郎(かすがのいらつめ)の命で、大伴一族は軍事訓練の一環として、 武烈天皇を大将として狩猟・巻狩りを挙行していた。舎人達が森の 動物たちを追い出したところ、あまりに多い数を追い込んだために 大鹿が幼帝を襲うこととなり、傷を負った幼帝は治療の甲斐なく 息が途切れた。 ★ 王家の富と権力を一手に掴むはずの幼帝が亡くなったことは、 大王家の継承者をあらためて調査しなければならないこととなった。 曾祖父・仁徳天皇、さらにその親・応神天皇の代まで遡って 新王の候補を求めねばならない。王家に嫁いだ豪族(大伴、物部) の娘をみて大伴系、物部系などの王子が候補に挙がる。 大和の物部氏は、倭の本家物部氏と違い、分家である。大和の混乱に乗じて 倭が号令すれば、大和の物部氏は本家に隷属するしかない。倭が天下を握れば、 本家が上に立つから、大和の物部氏は大伴氏とは仲違いしてはならないのだ。 ★ 大和大王候補者調査の中で、息長・真手王と男大迹王が又従兄弟の関係である、 その二人の共通の先祖は応神天皇に繋がり、さらに「伝説の美女」忍坂大中津姫を 系譜として春日大郎とも繋がっていることが判明した。男大迹王は 外国での生活、大陸文化の素養もあり、大王家の後継者として問題ない。 /// 大伴、物部、さらには春日大郎の懇請にもかかわらず男大迹王は拒絶した。 武烈天皇の姉弟である手白香姫の夫となるのであり、まるで種馬探しだと 怒っていた男大迹王も、最終的には条件を提示して受け入れた。 「手白香姫とは婚姻するが、手白香姫は大和(二階堂)に住んで祭りを司る」、 「男大迹王は枚方の北の樟葉に新宮を構えて麻績娘子(真手王の娘)と住む」 ことになった。 男大迹王が大和の大王・「継体天皇」となったが、 本文のまま、男大迹王を使用する。 ★ (呆けの写経は続く) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Apr 29, 2020 06:45:14 PM
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