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 めいてい君@ 日本の純資産~過去最大の純資産で円建てでは世界最大 [東京 28日 ロイター] - 財務省は2…

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Nov 21, 2017
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カテゴリ:基本事情(各国)
​​​​★

 急ぎ、オーストリア共和国の残りの部分を追記します。

 腰痛のために、マドレーヌ氏からの伝言(=電言)を

 先に取り上げしました。

 但し、墺にしても、独にしても、イスラム圏からの

 大量の移民が移民先の習慣を取り入れず(郷に従わず)

 暴力事件や、雇用問題での軋轢を齎す中で、ポピュリズムに

 後押しされた極右派が抬頭しており、政治的に不安定となっている。

 墺では、移民問題に批判的な右派が最大政党となり、極右政党を

 加えれば過半数が確保できる状態、若い右派首相が間もなく誕生する。

 独では移民・人道問題に寛大なキリスト教政党が、過半数割れとなり、

 連立を模索した政党が離反しつつあり、再選挙の可能性が高い。

 いずれにしても、「郷に入っても郷に従わない」イスラム系移民たちには、

 EU圏は厳しい態度をとらないと内部分裂を起こしそうである。

 イスラム移民は、独・墺が第二次世界大戦ではユダヤ系移民に対して

 厳しい姿勢を起こした民族主義の底流があることを再認識し、

 欧州に移民する場合は、「郷に従う」意識を持たなくては、

 各地でもトラブルを起こすことを認識すべきであろう。

 イスラム圏での「​コーランか 貢納か 剣か  どちらを選ぶか?​

 とまで言えないまでも、

 「郷に従う姿勢=相手の慣習に溶け込む態度」なかりせば、

 「​免疫細胞が異物を攻撃するように働き​

 少数イスラム異教徒は「移住先のキリスト教大国」には住めなくなることを

 イスラム宗教指導者は再認識すべきであろう。

 呆け頭が言っても仕方がないが・・・




<その3-1から続く>

 サラエヴォ事件あたりから


​国名:オーストリア共和国
   (オース鳥ア)​

     Republik Österreich

 略史<外務省、WIKIPEDIAなど>

年 月

略       史

 1908年

​ ボスニア・ヘルツェゴビナは(1878年ベルリン会議でオーストリアの
占領下にあったが、1908年オスマン帝国青年トルコ人革命勃発に合わ
せた形で)正式にオーストリア領に併合された。ボスニア住民、特に
セルビア人住民はこれに反発、セルビアや他の南スラヴ諸国への統合
を望んだ。

<1910年のオーストリア=ハンガリー二重帝国の民族構成>
 赤=ゲルマン
 画像が見辛い方は、画像の上で右クリックして
 大きな画像を新しいタブで出してご覧ください。





1914年、オーストリア当局はセルビアで重要な祝日の聖ヴィトゥスの
日(Vidovdan)6月28日をフェルディナント大公(皇太子の自殺後は、
フランツ・ヨーゼフ帝の甥にあたる皇位後継者)のサラエヴォ訪問の当日に
設定した。
この日はまた、1389年セルビアがオスマン帝国に敗北した「コソボの
戦いの日」でもあり、皇太子夫妻の訪問はセルビア人の神経を逆撫で
する結果ともなった。​

また、6月28日は大公夫妻の14回目の結婚記念日で、大公の妃ゾフィー
はボヘミア伯爵家出身の皇族妃付女官、身分的には全く釣り合わない
貴賤結婚で、ハプスブルク家は彼女を皇族一員とは認めず、ゾフィーは
公式な場に夫と「夫妻」として出席することも禁じられていた。
この時、結婚記念日、また本国から遠いボスニアへの視察ということ
もあって、夫妻同伴に特別の許可がでた。

なお、オーストリア政府当局の対応は極めて杜撰で、黒手組(*)の動きを
察知したセルビア政府も、当の国境警備員が黒手組のメンバーのため
逮捕に失敗。
襲われた大公夫妻自体も警護を厳しくしないままでの銃撃で死亡。
暗殺犯たちの武器はセルビア政府の支給品であった。

(*)黒手組(セルビア語表記:Црна рука )は、セルビアの民族主義者
により1911年に結成された秘密組織・テロ組織。
日本語では「黒い手」「ブラックハンド」とも訳す。
組織の正式名称は「統一か死か(Уједињење или смрт)」で、
1916年解散させられ、翌年首謀者は銃殺刑に処す。 

 1914年

 オーストリア=ハンガリー帝国政府は独を味方とし、セルビアに無条件での最後通牒
受諾を要請したが、セルビアの背後には露が付き、これに従わないため、
オーストリアは宣戦布告、これを契機にWWIが勃発した。









​ 1918.11.12~
1919.10.21
「独=墺共和国」

 第一次世界大戦末期、同盟国として参戦したオーストリア=ハンガリー
帝国は、皇帝中心の総力戦体制が破綻、ハンガリー人・チェコ人など
支配下の諸民族が分離独立の動きを見せ、皇帝カール1世は最後まで
帝国の維持に努力したが、ことごとく失敗し、1918年10月には事実上
退位となる。

​​同時期、バウアーら左派の指導下で、二重帝国の維持を放棄し諸民族の
独立を承認する方針に転じた社会民主党は国政の主導権を握り、
レンナーを首班の社会民主党・キリスト教社会党連立臨時政府は
11月12日共和国の成立を宣言。
この共和国は、かつて支配下であった諸地域の独立で領土が激減し、
ドイツ人が居住するオーストリア地域のみで一国を形成することは
困難として、同じく敗戦により共和政(ヴァイマル共和政)が発足した
隣国独との合邦(アンシュルス)をめざす構想を持っていたため、
国号として「ドイツ=オーストリア共和国」を称した。​​

​​発足初期は、国政の主導権を握る社会民主党が、労働評議会運動を背景に、
当時としては先進的社会政策を次々と打ち出し、独自の漸進的社会革命を
進めたが、1919年10月サン=ジェルマン講和条約で経済改革の前提の
アンシュルスが公式に否定され(国号を「オーストリア共和国」と改称)、
また政権与党の保守派のキリスト教社会党との対立が表面化したことから、
1920年10月社会民主党は政権から離脱し、オーストリア革命は終焉した。​​

​ 1919.10.21~
1934.4.30
「墺共和国」

 共和国において二大政党を形成した社会民主党とキリスト教社会党は、
連立解消後、しだいに対立を深め保守派は1921年以降「護国軍」、
社会民主党・社会主義者たちは1923年「防衛同盟」(共和国保護同盟)を
組織し小競り合いや、は武力衝突などが頻繁に発生、社会不安を醸成した。

​1929年米国からの世界恐慌波及で1931年墺最大の銀行破綻等経済混乱の
中で、ナチズムに共鳴、ナチス・ドイツとの合邦を求める声が保守派
中心に高まり、共和国は内側からの危機に苦しむこととなった。
(1932年4月就任の)キリスト教社会党出身のドルフス首相は、
世界恐慌にデフレ政策で対処せんとしたが、議会第一党社会民主党を始め
多数野党の抵抗でその政策を実行することは出来ず、ドルフスは、
自らの独裁体制強化で危機を切り抜ける方向に進むこととなった
1933.1.30隣国・独でヒトラーのナチス政権が成立~1945.5滅亡)。​

​​​ドルフス首相は、1933年3月4日に議会停止、法令による政治に転換し、
社会民主党は主要な政治的活動の場を奪われた。
一方、彼はアンシュルスを標榜し自分の独裁を脅かしかねぬナチス勢力の
活動を同年6月に禁止。

9月、キリスト教社会党と護国団を統合「祖国戦線」
(Vaterländische Front)発足、政権を支援するための体制作りが進行。
社会民主党および「防衛同盟」に対しての挑発的な弾圧が頻繁化、
1934年2月に防衛同盟の解散命令で、武装蜂起し、ウィーンを始めとする
主要都市で保守派・護国団との間で市街戦が展開され、市街戦で防衛同盟・
社会民主党は敗北、蜂起指導のバウアー外相ら社会民主党の指導者は亡命
1,000人以上の市民が死傷し、1,500人が逮捕、防衛同盟の9名が裁判で
処刑となった。
社会民主党やその系列の労働組合は活動禁止となり、国内組織は壊滅した。
ついで4月30日にはイタリア・ファシズムにならった新憲法の制定とともに
国号が「オーストリア連邦国」と改称され、ドルフスの権威主義的独裁体制
は確立された。​​​

​ ​1934.4.30~​
1938.3.13
「墺連邦国」

 ドルフス首相の独裁体制は、オーストロファシズムと呼ばれる。
「職業共同体」と呼ばれる7職能代表からなる各評議会組織が、
議会に代わり政府に対する補助機関として組織される
コーポラティズム体制が採用された。
また、カトリック教会が国教と規定され精神的支柱となったことから
宗教的な共通点の多いイタリアのベニト・ムッソリーニ政権と親密な
関係を有す。
しかし独墺合邦を追求するナチ党およびオーストリア・ナチ党員との
対立を呼び起こし、体制樹立後間もない7月25日、ドルフスはクーデター
を試みたオーストリア・ナチ党員に射殺された。
クーデター自体は阻止され、
後任首相にクルト・シュシュニック教育相が就任。
クーデターの失敗後、
ヒトラー政権は副首相フランツ・フォン・パーペンを大使派遣、
両国関係の沈静化を図り、ホスバッハ覚書にあるように、
オーストリア併合をあきらめてはいなかった。

​ 1938~
1945.5

ナチスドイツ
統治下

の墺
(WWII=
1939.9.1~
1945.9.2​)

 独総統アドルフ・ヒトラー(総統1934.8.2~1945.4.30)は
当初墺併合の意図はなかったが、
1938.3.13の進駐(オットー作戦)により熱烈歓迎を受けたため、
即時の両国統合に方針転換した。
同日、ヴィルヘルム・ミクラス大統領辞任後のオーストリア政府
のアルトゥル・ザイス=インクヴァルト首相は1934年連邦授権法に基づき、
「独帝国と墺の再統一に関する法律」を決議し、発布。
独国と墺第一共和国の統合と、墺が独国の「州」となることが合法化。
同日、独においても「独帝国と墺の再統一に関する法律」が公布され、
墺が独の州であること、4月10日に国民投票を行うことが定められた。

成立した「墺州」は墺という国家を清算する業務を与えられ、
1939.9.30に清算を完了し、帝国大管区に再編される予定であった。
3.15には連邦政府に代わる、4大臣からなるオーストリア州政府が成立。
さらに帝国総督(国家代理官)が設置され、ザイス=インクヴァルトが就任。
4月23日に、墺における国家社会主義独の労働者党(ナチ党)のリーダーの
ヨーゼフ・ビュルケルが「独帝国と墺再統一のための帝国全権委員」
(国家弁務官)に任命された。
ビュルケルは総統に直属し、総督や州政府に対しても命令する権限を持つ。

墺州は法制上も墺州(独語: Land Österreich)と定義されたが、
公式には「オストマルク(独語: Ostmark)」と呼称された。

​​墺州制度の廃止(=オストマルク法)は、1940.4.1まで延期され、
オストマルク帝国大管区(1940年)から

ドナウ=アルプス帝国大管区(1942年)では、

・ケルンテン帝国大管区・・・管区都=クラーゲンフルト(現スロヴェニア)
・下ドナウ帝国大管区・・・クレムス
・上ドナウ帝国大管区・・・リンツ
・ザルツブルク帝国大管区・・・ザルツブルク
・シュタイアーマルク帝国大管区・・・グラーツ
・チロル=フォアアールベルク帝国大管区・・・インスブルック
・大ウィーン帝国大管区・・・ウィーン
//////////////////
​ホロコースト​

(独語: Holocaust、
英語: The Holocaust、
イディッシュ語: חורבן אייראפע‎、
ヘブライ語: השואה‎)



1938年ユダヤ人の墺からの国外退去計画にアドルフ・アイヒマンが派遣されて、
総計128,500人が国外亡命したが、独軍侵攻でホロコーストに直面、
最終的に65,000人が各地の強制収容所で落命した。​​
​<意味>
第二次世界大戦中のナチス党率いるナチス・ドイツがユダヤ人などに
対して組織的に行った大量虐殺を指す。
元来はユダヤ教の宗教用語にあたる「燔祭」(en)(獣を丸焼きにして
神前に供える犠牲)を意味するギリシア語で、
のち転じて火災による大虐殺、大破壊、全滅を意味するようになった。

​ 連合軍軍政期
 解放・占領
1945.4.~
1950.12
<第二共和国>

 

1943.11.1のモスクワ宣言で連合国により併合(=アンシュルス)の
無効が宣言され、墺を元の状態に復帰させることが決定。

カール・レンナーは1945.4臨時政府を形成し、墺は独ではないと宣言。
しかしドナウ連邦による二次元連邦理論は、独銀行がドナウ下流域に
築いた利権を守る構想で、終戦後、レンナー臨時政府は連合国に
承認されたが、墺は連合国の列強4ヶ国(露、米、英、仏)により
分割占領された。
12月からレオポルト・フィグル政権となったが、
実権はレンナーがもっていた。
ソ連占領地区により取り囲まれていた首都ウィーンは、
その重要性から4ヶ国の分割統治とされた。
1946.9、伊と南チロルをめぐる協定を結び、翌年1月、墺は連合国と
講和交渉を開始。
1946.7に国有化法が制定され、銀行・大企業・炭坑の国有化が推進された
(水道・電気・鉄道は戦前から公営)。
一方、反ナチ法で参政権を剥奪されていた人口の7%を占める国内右派が、
1949年の総選挙までに規制が解かれ、彼らの参政権は回復した。

​ 1955年~
オーストリア
共和国


 墺国家条約を結び主権を回復し、軍政をとかれた。

​​連合国各国の軍隊が出国した1955.10.26に墺は「永世中立国宣言」を行い、
祝祭日と定め,独との合邦を永久に禁じられることを条件に、独立を回復した。
憲法による武装中立で、スイスのような国際的な保証はない。

//////////////////////////////////////////////////////
1. EUには、墺は加盟しているが、スイスは加盟していない。
2. NATO=軍事同盟には両国とも非加盟、
   但し、「欧州・大西洋パートナーシップ理事会」EAPCには加盟。
3. UNには両国とも加盟。PKOも両国は派遣

​ <墺大統領
 2004年以降>

 ​連名は共同代行​

 2004.7.6~
2004.7.8

 アンドレアス・コール=オーストリア国民党(ÖVP)

バルバラ・プラマー=オーストリア社会民主党(SPÖ)

トーマス・プリンツホルン=オーストリア自由党(FPÖ)

 2004.7.8~2016.7.8

 
ハインツ・フィッシャー=オーストリア社会民主党(SPÖ)

 2016.7.8~2017.1.26

 ドリス・ビュレ=オーストリア社会民主党(SPÖ)

カールハインツ・コプフ=オーストリア国民党(ÖVP)

ノルベルト・ホーファー=オーストリア自由党(FPÖ)

 2017.1.26~

 アレクサンダー・ファン・デア・ベレン=無所属(緑の党出身)

​ <墺連邦首相
2000年以降>

 

 2000.2.4~
2007.1.11

 ヴォルフガング・シュッセル=オーストリア国民党(ÖVP)

 2007.1.11~
2008.12.2

 アルフレート・グーゼンバウアー=オーストリア社会民主党(SPÖ)

 2008.12.2~
2016.5.9

 ヴェルナー・ファイマン=オーストリア社会民主党(SPÖ)

 2016.5.9~
2016.5.17代行

 ラインホルト・ミッターレーナー=(オーストリア国民党)臨時代行

 2016.5.17~
2017.10.15見込み

 クリスティアン・ケルン=オーストリア社会民主党(SPÖ)

 2017.10.15見込み

 セバスチャン・クルツ=オーストリア国民党(ÖVP)<31歳>
中道右派、元外相
難民数制限
在住移民福祉削減
連立相手は極右の「自由党」の公算大

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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Last updated  Nov 21, 2017 10:29:04 PM
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