アンデス文明 | 担い手は1万2千年前に、ベーリング海峡を渡って
アジアから移動してきたモンゴロイド(黄色人種)の中の
古モンゴロイドとされる。
アンデス文明は、主に、海岸部、山間盆地、高原地帯に分かれる。
山間部と高原地帯は一緒に扱われることも多い。
文明の特徴
1. 文字を持たない
2. 青銅器段階(鉄を製造しない)
3. 金銀鋳造が発達(→インゴット化されスペイン本国に輸送)
4. 家畜の飼育
5. 車輪技術はなく駄馬の輸送による
6. 塊茎類を主な食料基盤
7. アンデス特有の生態学的環境と文化・文明の発展に深い関係
1万4千年前:人の居住痕跡
1万1千年前:魚尾型尖頭器を用いた狩人たちの遺跡
BC7500年:洞窟や岩陰に居住する狩猟民族
BC6000年:農耕・牧畜社会
|
BC3000
~BC2500
(精巧性から
更に遡上も?) | スーペ谷に、カラル(Caral)という石造建築主体の
カラル遺跡(ノルテ・チコ文明)が現れる。
![](https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/8931fb3928a519388079690a2b096bfa04887465.00.2.9.2.jpeg)
<カラル遺跡の入り口の看板:Webから>
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カラル遺跡で発見された植物の炭素年代測定で
BC2627年(今から約4600年前)と言えば、
エジプトのピラミッド時代に相当するから
四大文明(エジプト文明、メソポタミヤ文明、
インダス文明、黄河文明=長江文明)に加えて
アンデス(カラル)文明という五大文明が
存在していたことになる。
ピラミッドも発見されており、保存状態は
エジプトほど良いものではない。
諸兄は、メキシコでは遺跡が西洋人に破壊されて
原始宗教建造物の上に、キリスト教建造物が
建設されているのをご存知か?
勘ぐれば、法王庁=キリスト教が南米の土着民を蔑み
略奪を認可したように、古代文明遺跡を破壊した
のではないだろうか。
現在、イスラム国が古代遺跡を破壊してきたように
キリスト教徒が遠慮なく破壊できた時代が存在する。
改めて米国の古代史を研究する必要がここにある。
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NZでの海底「探査船ちきゅう」の探査で
人類が存在した年代に
アフリカ大陸と南米大陸が分離したこと
などが加われば、
地球史には新しい視点が加わるであろう!
(当時はまだ土器を持たない時代といわれており、
土器の誕生以前にこのような神殿群を誕生させたところに、
アンデス文明の特徴があるともいえる。) |
BC1000~
BC200 | アンデス山脈全域にネコ科動物や蛇、コンドルなどを
神格化したチャビン文化が繁栄する。
![](https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/fc257f59bd5176570fc2c592e330121f7afeb11e.00.2.9.2.jpeg)
<チャビン文化:神殿石柱にジャガー、コンドル、蛇
など神のモチーフ>
|
AD100~
AD700 | コスタ(=costaコスタ海岸・砂漠地帯)北部に
モチェ文化が現トルヒーリョ市郊外に
「太陽のワカ」「月のワカ」を築く。
![](https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/d1f6db5f2dbe5dc22324b4773ac0ea1dc949d8df.00.2.9.2.jpeg)
<太陽のワカ>
![](https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/ad2eeef6b07ead62b1c9e4dc830a4e3bea1284e8.00.2.9.2.jpeg)
<月のワカの復元図>
コスタ南部では、AD1~AD600頃、信仰や農耕の
ための地上絵を描いたナスカ文化が繁栄した。 |
AD800 | シエラ(=sierraシエラ アンデス山岳地帯)南部
のアヤクーチョ盆地にワリ文化が興隆した。
![](https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/b549b8f8ba5800c2631be4a87f3b3f9730d1fa89.00.2.9.2.png)
<ウアコ・ワリ:WIKIPEDIA>
ティワナクの宗教の影響を強く受けた文化で、
土器や織物に地域色は見られるが統一されたテーマが
描かれ、いわゆるインカ道の先駆となる道路の整備、
四辺形を組み合わせた幾何学的な都市の建設などから
ワリ帝国説が唱えられるほどアンデス全域にひろがり、
1000年頃まで続いた。 コスタ北部のランバイエケ地方には、
金やトゥンバガ製の豪華な仮面のシカン文化が
ワリ文化の終わりごろに重なって興隆した。 その後、コスタ北部にはチムー王国が建国され、
勢力を拡大し、首都チャン・チャンの人口は
25,000人を越え、王の代替とともに王宮が建設された。 |
15C | クスコ周辺の南部山岳地帯に(13Cに成立していた)
クスコ王国が、1438年即位のケチュア人
の王パチャクテクにより軍事的に統一され、
征服戦争で急速に勢力を拡大、ケチュア人による
タワンティン・スウユ
(ケチュア語族: Tawantin Suyu、
インカ帝国)によりペルー、及び周辺の
アンデス地域は統合される。
![](https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/d03c51ac2b34d89244c78ddcae3dc5f64d714025.00.2.9.2.jpeg)
<マチュ・ピチュ=標高:2,430m:WIKIPEDIA>
続くトゥパク・インカ・ユパンキの代に、チムー王国も
1476年頃に征服され、その支配体制に組み込まれた。
続くワイナ・カパック征服でアンデス北部にも進出し、
アンデス北部最大の都市だったキト(=標高:2,850m)
を征服。
またワイナ・カパックはマプーチェ人と戦い
チリの現サンティアゴ・デ・チレ周辺までと、
アルゼンチン北西部を征服し、
ユパンキの代からの征服事業を完成させ、
コジャ・スウユ(ケチュア語族: Colla Suyo、「南州」)
の領域を拡大させると共にインカ帝国の最大版図を築く。 インカ帝国はクスコ(「へそ」の意、標高3,399m)を首都とし、
現ボリビアのアイマラ人の諸王国や、チリ北部から中部まで、
キトをはじめとする現エクアドル全域、
現アルゼンチン北西部を征服し、
その威勢は現コロンビア南部にまで轟いた。
インカ帝国は幾つかの点で
非常に古代エジプトの諸王国に似ており、
クスコのサパ・インカを中心にして1200万人を超の人間が
自活できるシステムが整えられていた。
![](https://image.space.rakuten.co.jp/d/strg/ctrl/9/66413def6aa71400be8d0df8bc361284a5643a8a.00.2.9.2.png)
<https://en.wikipedia.org/wiki/Inca_Empire
1438-1533>
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16C初め頃 | までインカ帝国は栄えていたが、疫病が流行し
(パナマ地峡から南にもたらされたヨーロッパの疫病である)、
帝位継承などの重大な問題を巡ってキト派のアタワルパと
クスコ派のワスカルの間で激しい内戦(1529年–1532年)が
繰り広げられた。 内戦はアタワルパの勝利に終わったが、
内戦の疲弊の隙にパナマからコスタ北部に上陸した
フランシスコ・ピサロ(内紛で暗殺される)率いる
スペインの征服者達が
インカ帝国を侵略することになった。
(1494年にローマ教皇アレクサンデル6世の仲裁によって
スペインとポルトガルの間にトルデシリャス条約が結ばれ、
スペインは「新大陸」における征服の優先権を認められた。
トルデシリャス条約により、スペインによるアメリカ大陸
制圧を担った者達はコンキスタドール(征服者)と呼ばれ、
また、コロンが到達した地に居住していた人々は、
自らがインドに到達したと思ったコロンによりインディオ
(インド人)と呼ばれたため、以降アメリカ大陸の人々は
ヨーロッパ人によってインディオやインディアンといった
呼称で呼ばれるようになった。) |
1533年 | 征服者達は手早くクスコを征服、第13代皇帝アタワルパを
絞首刑にし、アンデス支配のインカ帝国は崩壊した。
ピサロは1534年にリマ市を建設すると、以降このコスタの都市が、
それまで繁栄していたクスコに代わってペルーの中心となる。
1549年にエンコミエンダ(スペインの植民地住民支配制度)の
再配分が王権によってなされたことにより、
ペルーにおけるスペイン王権の支配は確立。南米のスペイン領
全てを統括するペルー副王領の首都にリマが選ばれると、
以降ラテンアメリカ諸国の独立までリマはスペインによる
南アメリカ支配の中心地となった。
1572年にスペイン人の支配からビルカバンバに逃れていた
最後の皇帝、トゥパク・アマルーが捕らえられて処刑され
インカ帝国はその歴史の幕を閉じた。 |
1570年 | インカ帝国時代に1000万を越えていた人口が1570年に
274万人にまで落ち込み、1796年のペルーでは108万人
になった(数字はH.F.ドビンズの推計による)。 また、このような征服事業は思想的な正当化が図られた。
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初期においてはキリスト教信仰と、「半人間」である
非キリスト教徒のインディオへの改宗事業によって
思想的な正当化が図られた。
これに対し、1537年にローマ教皇パウルス3世が
「新大陸の人間は真正の人間である」と宣言し、
インディオへの非人道的対応を改めるよう
カトリック教会の立場を打ち出したが、
人文主義者のファン・ヒネス・デ・セプルベダのように、
教皇の宣言を認めない人物も現れた。
これに対し、バルトロメ・デ・ラス・カサス神父のように
、キリスト教の立場からインディオ文明を擁護した
スペイン人も少数存在したが、植民地支配体制を
揺るがすことは出来なかった。
キリスト教の後に犯罪の思想的正当化の試みは啓蒙主義や
自由主義によって行われ、フランシス・ベーコンや
シャルル・ド・モンテスキュー、デイヴィッド・ヒューム
らはインディオを「退化した人々」とし、ヨーロッパ人に
よる収奪を正当化した。
19世紀に入ると、「近代ヨーロッパ最大の哲学者」こと
ヘーゲルはインディオや黒人の無能さについて語り続け、
近代哲学の立場から収奪を擁護した。
19世紀後半には社会進化論などの様々な立場から、
インディオやメスティーソ、黒人に対する収奪を
近代科学によって正当化する試みが進んだ。
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| (これ以前のペルーの歴史はキリスト教文明により
破壊され、埋設されている部分があるかも知れない。
財宝は合法的に欧州に略奪・搬送されているのだから。
・・・めいてい君) |
1821年 | 「スペインから独立」 遙々、ラ・プラタ連合州から遠征軍を率いてリマを解放した、
ホセ・デ・サン・マルティンの指導の下に独立を宣言。
1824年に北のベネスエラからコロンビア共和国の解放軍を
率いた解放者シモン・ボリーバルの武将、
アントニオ・ホセ・デ・スクレがアヤクーチョの戦いで
ペルー副王ホセ・デ・ラ・セルナ
(エルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナの母方の先祖)を
撃破し、ここでペルーは事実上の独立を果たした。
ペルーの事実上の支配者ガマーラは旧・インカ帝国領土回復
のためボリビア、コロンビアなどを併合しようとしたが
戦いに敗れた。 逆に、1836年にボリビア大統領により征服され
「ペルー・ボリビア連合」が成立したが、ガマーラ初め
亡命ペルー人はチリ政府、アルゼンチンの協力を得て、
ボリビア軍を破り連合は崩壊した。
ガマーラは再び、ボリビア併合のためにボリビアに向かい、
破れて戦死、以後は2国の統一を臨むものはいなくなった。
1845年ラモン・カスティーリャ政権には、強権政治で
安定し、硝石肥料、綿花、サトウキビが経済を支え、
1854年に奴隷制廃止後の中国移民受入れを行った。 |
1968年~1980年 | 軍事政権:初代フアン・ベラスコ・アルバラード
:第2代フランシスコ・モラレス・ベルムデス |
1980年~1985年 | フェルナンド・ベラウンデ・テリー政権 |
1985年~1990年 | アラン・ガルシア第一期政権 (反米・反帝国主義、貧困層救済、経済政策失敗などで
小農業国としては莫大な対外債務を抱えた。
輸出収入の5倍、外貨準備の10倍に匹敵し、
インフレ率は8千パーセントのハイパーインフレで
国家破綻の危機となる。) |
1990年
~1995年 | アルベルト・フジモリ第一期(大統領)政権 (「変革90」を率いる日系二世大統領。
「フジ・ショック」と呼ばれたショック政策による
インフレ抑制と、財政赤字の解消による経済政策を図って、
新自由主義的な改革により悪化したペルー経済の改善を図り、
農村部の農民を武装させたゲリラ対策により治安の安定に
一部成功するなど素人とは思えない業績を残した。
「テロおよび国の安定時期」
1992年に議会解散、憲法停止して非常国家再建政府を樹立。 |
1995年~2000年 | フジモリ第二期(大統領)政権 (日本はこの時期にペルーへの最大の援助国となったが、
これを原因として1996年にトゥパク・アマルー革命運動
による日本大使公邸占拠事件が発生。) |
2000年~2001年 | フジモリ第三期政権、同政権退陣で
バレンチン・パニアグア暫定政権 (徐々に独裁的になっていった政権に対する国民の
反対運動の高まりや、汚職への批判を受け、11月21日に
訪問先の日本から大統領職を辞職。) |
2001年~2006年 | アレハンドロ・トレド(大統領)政権 (先住民初(チョロ)の大統領) |
2006年~2011年 | アラン・ガルシア第二期(大統領)政権
(貧困層代弁者:ウマラ候補は惜敗) 2007年8月15日に発生したペルー地震によって、
死者540人、負傷者1,500人以上、被災者数85,000人が
報告されている。
2009年4月7日、ペルーの最高裁特別刑事法廷は、
元大統領アルベルト・フジモリ被告に対し、
在任中の市民虐殺事件や殺人罪などで禁固25年(求刑30年)
と被害者や遺族への賠償金支払いを命じる有罪判決を言い渡した。 |
2011年~2016年 | オジャンタ・ウマラ(大統領)政権
(地方の貧困層、南部の支持基盤のウマラは、
ケイコ・フジモリに決選投票で僅差で勝利)
|
2016.7.28~
| ペドロ・パブロ・クチンスキ(大統領)政権
(大統領選挙ではケイコ・フジモリ人民勢力党候補が約40%,
クチンスキー「変革のためのペルー」候補が約21%の投票率を
獲得し決選投票に進出、決選投票ではクチンスキー50.120%、
ケイコ・フジモリ49.880%の僅差でクチンスキーが当選。
クチンスキー大統領は、人民勢力党党首ケイコ・フジモリが
過半数の73議席を有するのに対しわずか18議席の支持基盤
しか有していない。)
2016.7.28~~2017.9.17 首相:フェルナンド・サバラ・ロンバルディ (全130票中121票の賛成をえた。) 2017.9.17~ 首相:メルセデス・アラオス(女性、154代首相) |