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 めいてい君@ 日本の純資産~過去最大の純資産で円建てでは世界最大 [東京 28日 ロイター] - 財務省は2…

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Jan 27, 2020
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カテゴリ:基本事情(各国)


  先住民出身の反米主義大統領が、


「炭化水素資源」の国有化など
を行ってきたが、

昨年11月に4選目の選挙で勝利はしたものの


選挙違反操作で退陣に追い込まれている。

 国外逃亡を余儀なくされ


​現在は右派のアニュス暫定大統領体制である。


<日本経済新聞から>



 前大統領は亡命先をアルゼンチンに替えて、

今年5月の大統領選に
臨もうとしている。


 どのような国だったか、

DATAが古くなったので見直したい。







​    チチカカ湖やウユニ塩湖は

   雄大であり、

 ユニクロCMで
知られている。

 国土は、

隣接国との戦闘により、

独立時に比較して46%に縮小し、

​(海への出口までも割譲せざるをえず、)

海のない内陸国となった。









<WIKIPEDIAから>




 高山病に罹る人も多く、

「コカ茶」が緩和剤として良いというが、

日本、アメリカなどでは「コカ茶」は

麻薬の一種として扱われる。

 首都ラパス市から北東のユンガス地方へ

向かう切り立った
アンデスの断崖絶壁の

80km山道(バス1台の幅)を

通過
する必要がある。

 雨や霧の多い気候で、


その「デス・ロード」は

毎年200人以上の命を飲み込んでいる。

 日本からの移民は

1899年にペルー移民が

アンデス山脈を
越えて、再移住したことに始まり、

戦後の移住計画でオキナワ、

サンファンの移住地が開拓されている。

 詳しくは、日本ボリビア協会の

ホームページなどをご覧下さい。


 ​ボリビア多民族国​


略史
<資料出所:外務省、WIKIPEDIA>
 Rev.Jan ,2020​



​年月​

​略史 <在ボリビア日本国大使館資料など>​

​独立以前​

​​ 高原地帯には、約3千年前からティワナク文明

が現れ、紀元後9~11世紀にかけティティカカ
湖畔から中央アンデス全域に拡大。

13世紀にはケチュア族のインカ帝国が成立し、
現在のボリビア
(当時はコジャスと呼ばれた)も
その支配下となる。

 他方の、東部アマゾン低地では、半定住様式の
アラワク、トゥビ・グァラニー、
チキートなど部族や多数の
狩猟・採集民族が独自の生活を送っていた。

 1533年にインカ帝国の滅亡後、当国領域
は征服者に与えられた
「ヌエバトレド」という
漠然とした地域となったが、ペルー副王領の
管轄
地で「アルトペルー」と呼ばれ、1559年に
現スクレ市に「行政兼司法府」
が設置され
長官は或る程度の独立権を行使できた。

 高原地帯の先住民は、スペイン王室の重商
主義・統治により、鉱山
(ミタ制による労働
徴発)・農園(土地の収奪)の労働力となり、

1545年に発見されたポトシ銀山は1650年頃
人口16万人の新大陸
最大都市となり、その
発展は西欧の経済改革革命の引き金となった。

過酷な労働条件の鉱山就労、西欧起源の疫病
で人口は激減した。

 東部の低地では、イエズス会布教活動で定住
化が行われ植民地経済の
一角を形成したが、
1767年の同会追放以降は発展から取り残さ
れた。

 アルトペルーは1776年にペルー副王領からラプラタ
副王領に転入されたが、
スペイン人でも「現地
生まれ」が小数の「本国生まれ」の支配に
反対
して1809年に独立運動を起こした。​​

​1825年​

​​スペインより独立。

 最終的にアルトペルーを解放したのは、ベネズエラ、
コロンビア、ペルーを
相次いで独立させた
シモン・ボリーバル (Simon Bolivar)の軍隊と、

この軍隊を率いたスクレ将軍 (Sucre)である。
1824年にアヤクチョの戦
いで副王軍が敗れペルー
が完全に解放されると、翌25年にスクレ将軍

がアルトペルーを解放し、現スクレ市で独立宣言した。
新生国家は解放者・ボリーバルにちなみ
「ボリビア」と名付けられ、
同人の起草した
憲法が採択され、スクレ将軍が終身大統領に選
ばれた。

27年の内乱でスクレは国外追放となり、後継者・
サンタクルス将軍が国内
秩序を確立。独立当初の
模索の「ボリビア・ペルー連合」はチリの干渉

で崩壊している。​​

1879
~1883年

​​ チリとの太平洋戦争(硝石戦争)

 当時国内のチリ企業の鉱業権の税率を、
財政難とペルー政府の要請
もあり一方的に
引き上げ、チリ企業が増税を拒否すると
鉱山を接収
した。
チリは、ペルー、ボリビアに宣戦布告し、
4年間の戦争で敗北、
1904年の講和条約
で海岸領土を割譲し、内陸国となる。
敗戦の責任
は、政治に介入する軍人指導者
に帰せられ、軍の非政治化、
鉱業ブルジョアの
支持する政党政治が定着。

​​

1899
~1903年

​​ブラジルとのアクレ紛争

 ゴム産地の北東部・アクレ地方のブラジル人
農民が反乱し、
地方の独立宣言となり、
両国が紛争に巻き込まれて1903年

ペトロポリス条約でアクレ地方をブラジルに割譲。​​

1932
~1935年

​​パラグアイとのチャコ戦争

 その後20年以上、文民政治で安定したか
に見えたが、
錫に依存した産業構造は、錫
の国際価格の下落で輸出が停滞し
、恐慌と
なる。
この国家的危機を国境紛争なる対外問題に

置き換えようとしたものだが、ナショナリズム
高揚どころか、
6万人以上の死者と、
チャコ地方喪失の痛手、経済不況、

インフレによる鉱山労働者、農民、都市の中間層
への圧迫を負った。
​​

1952年

4月9日

​​「ボリビア革命」

 チャコ戦争に参加した青年将校達の間には、
敗戦は指導者の無能と
腐敗がもたらした
との意識が広がっていった。
軍事社会主義時代
に入ると、米系石油会社
国有化、ボリビア石油公社の設立、労働省

設置・労働条件改善が図られ、革命母体・
民族革命運動党
(MNR)が創設された。
鉱山労働者が労働条件改善要求で立ち上

がると、政府は武力弾圧(カタビ鉱山虐殺:
1942年)、MNRと結ん
だ軍の民族主義
グループがクーデターで政権を握った。

総選挙でMNRが有効票のほぼ半数を獲得
するも、軍事政権が認め
なかったため、
MNRは警察、武装鉱山労働者を味方に
クーデターを起
こして臨時政府を樹立、パスが
亡命先から帰国して大統領に就任
した。
鉱山国有化、農地改革、文盲への選挙権付
与を含む普通選
挙法の施行、旧軍隊の解体
等社会の根底を揺さぶる諸改革を実
現した。
しかし、この革命は、官僚的非効率、労働
運動に伴う生
産性低下、農業では小規模化
による生産性低下、などの弊害を生
み出し、
国際収支悪化、天文学的インフレを生み出した。
MNR政権は
社会主義政策の修正を余儀なく
され、外資導入、労働者権利制限
などで保
守化し、MNR政権からの離反、内部分裂が
発生する。
​​

1964
~1982年

軍事政権

 レネ・バリエントス・オルトゥーニョ
空軍司令官のクーデター
が起こる。
米国の「進歩のための同盟」の良き協力
者として同国
の軍事援助を得、左翼ゲリラ
活動の徹底取り締まりで、
革命家・チェ・
ゲバラを処刑、親米路線をとる。

しかし、自身は謎のヘリ事故で死亡。

 その後のクーデターで成立したオバンド、
トーレス両軍事政権は、ガルフ石油
の接収で、
保守化していた中間層の反発を招き、
バンセル保守軍事政権
に奪取された。

 バンセル政権は外資優遇に基づく開発戦略と
反共・親米政策をとり、
鉱物価格の安定に
支えられて7年続くも、独裁色が国際的な
非難を
浴びた。

 その後も何回かクーデターが繰り返された。
強圧政治、コカイン輸出で
内外から強い非難を
受け、経済状況の悪化、労働組合の圧力によ
軍部から文民政治に移った。

1982
~1985年

シーレス・スアソ大統領(民政移管)

 民主人民連合(UPD)

 ラテン・アメリカ史上未曾有のハイパーインフレーション
(1985年には年率約2万%)を招いた

1985
~1989年

パス・エステンソロ大統領
(21年ブリ、4回目)

 民族革命運動党 (MNR)党首

 国営企業合理化などで国家財政健全化、
輸出入、外貨取引の
自由化などの
「新自由主義経済政策」で抜本的経済改
革を行な
い、労働攻勢には戒厳令施行で
鎮静化、中南米諸国で最も低い
水準
(20%以下)に抑えることに成功、
2年連続のプラス成長を達成。

1989
~1993年

パス・サモラ大統領

 UPDの流れを汲む左派革命運動党
(MIR)が、
中道右派の民族民主行動党
(ADN)と連合

 基本的に前政権の自由主義経済路線を
踏襲、
経済安定の中での民主化定着に尽力

1993
~1997年

サンチェス・デ・ロサダ大統領

 民族革命運動党 (MNR)は、左翼系MBL
(ボリビア自由運動党)
と新興のポピュリスト
政党UCS(連帯市民連合、94年9月政権離脱)

を招き、8月6日政権連立。

 世銀、IMFの勧告に従い経済の構造調整を
図る路線を踏襲。

先住民を含めた「大衆参加政策」も推進し、
6大国営企業の
民営化に意欲的に取り組み。

1997
~2001年

バンセル大統領 (元大統領)

 民族民主行動党(ADN)が勝利し、8月、
左派革命運動党(MIR)、
連帯市民連合(UCS)
及び愛国良心党(CONDEPA)

(但し愛国良心党は98年8月連立を離脱)と
政権連立。

​2001年~2002年​

キロガ大統領

 前大統領が病気で退任したため、
 副大統領が就任

​2002年8月~2003年10月​

サンチェス・デ・ロサダ大統領

 民族革命運動党 (MNR)

 貧困問題の悪化を背景に、対米天然ガス
輸出計画に対する
先住民団体の大規模・
反政府運動への軍鎮圧で70名を越す

死者を出して退陣。

​2003年10月~2005年6月​

メサ大統領

 ジャーナリスト出身。前大統領退陣により、
副大統領から就任。

西部住民(貧困)と東部住民(裕福)との
対立から
国内道路封鎖抗議活動が過激化し
退陣。

​2005年6月~2006年1月​

ロドリゲス大統領

 前大統領が続いて退陣したため、憲法上
第3位の継承権を
持つ最高裁長官として就任。

​2006年1月~2009年12月​

モラレス大統領 第一期

 社会主義運動党(MAS)。

 左派先住民指導者で、貧富是正、先住民の
権利拡大を掲げ、
新憲法制定を目指す。
米国主導の麻薬撲滅、急速な経済自由化
に反
対し、炭化水素資源の国家管理の強化を打ち
だす。

2009年1月の国民投票で、先住民の権利拡大、
地方分権推進、
農地改革・土地所有制限、
天然資源の国家による所有等を定め
た新憲法
が61.43%の支持を得て、2月に発布された。

​2010年1月~​

モラレス大統領 第二期(任期5年)

 就任時の支持率は64.2%であったが、
ガソリン値上げ(80%)、
国立公園縦断
道路建設反対デモへの警察の暴力介入、
政党の
候補リスト作製問題で反発を招き
30~35%の支持率に落ち込ん
でいる。

 対米関係、地域統合等に関し路線変更
傾向(FTAAへの消極
的対応、ベネズエラや
キューバへの接近)が見られるほか、新たな

パートナー(イラン、中国、ロシア等)との関係構築
を模索している。

チリとの間では、「海への出口」問題を巡り、
国際裁判所への
提訴意向を表明したことで
外交関係はない(領事関係のみ)。

2014~
2017年


モラレス大統領 第三期(任期5年)
10月29日モラレスが大統領選で3度目の当選、
2015年1月​
第3期モラレス政権が発足

2016年2月,モラレス大統領の再々選を可能
とするための
憲法改正の是非を問う国民投票
が実施され,僅差で否決された。

2017年9月,MAS党は憲法裁判所に対し,
大統領,副大統領,
国会議員,県知事等の
再選禁止に係る憲法及び選挙法の条項は

米州人権条約に違反するとして違憲であると
申立て,同年11月,
最高裁判所は違憲申立て
を認める判決を下し,大統領職ほかの
無期限
再選が可能となった。

​2019年​

10月20日モラレスは大統領選で4度目の当選
を果たすも、
開票結果の不正操作疑惑が浮上
して抗議活動から混乱し、
国軍、警察などか
らの辞職勧告で11月10日大統領を辞職、

12日にメキシコへ亡命。
憲法裁判所は
ヘアニス・アニェス上院副議長を暫定大統領
に指名。

米国、ブラジル、コロンビア、エクアドルも
承認した。

ボリビア政府がメキシコ大使館監視を強めた
ために両国間
の関係は悪化、メキシコは
ウイーン条約違反と非難。

ボリビア政府の動向は「メキシコ亡命のため
にモラレス氏
の側近が潜んでいたメキシコ
大使公邸をスペイン外交官が
訪ねたのは、モラレス氏がスペインの急進派
ポデモスに
資金提供しており、当該側近を救
うための訪問であった」との
憶測もある。
 ボリビアとスペイン両国はお互いに外交官
の国外退去を
求めており、EUも深い懸念を
示した。

​2020年​

モラレス氏は亡命先をメキシコから
アルゼンチンに移し、
暫定政府の行為
は国際法を侮辱したものであるとし

5月3日の次期代表選に向けて自派の候補者
を選考中という。

<ボリビア暫定政府が、メキシコ、
スペインとの対立を
深めていることが、
後者の「左派政権」への対抗措置とも

受け止められる。>




基本事情

​資料出所:外務省、WIKIPEDIA,世界経済のネタ帳など​


​国名​

ボリビア多民族国

国土を解放してくれた二人の将軍
に肖り、
「シモン・ボリバル将軍」
を国名に、
「アントニオ・ホセ・デ・スクレ
将軍」を
首都に命名した。

2009年3月に「共和国」から
「多民族国」に変更

幸福度
(エイドリアン・
 ホワイト氏)

​117位​

​通貨​

ボリビアーノス

1米ドル=6.86ボリビアーノス
(2019年8月)

​国花​

カントゥータはボリビアの国花。
低地に咲く花で、
花弁は赤、花弁の
付け根は黄、茎は緑でボリビア

国旗と同じ色。

<ペルーと同じ国花>

​国旗​

「国旗は水平方向に 3 つに分けら
れた帯をなし、
その幅は等しく、
色は一番上が赤、中央は金、

一番下が緑とする。」

赤、黄、緑の三色旗で、中心にあ
る紋章のコンドル
は希望を象徴。
赤は独立戦争で流れた血、黄は豊か

な鉱物資源、緑は森林資源を表す。

​国の標語​

Morir antes que esclavos vivir
(スペイン語: 奴隷として生きる
 より死ぬこと)

​面積:平方キロ​

1,100、000平方km

(1,098,581平方km 
 在ボリビア 日本大使館)

  日本の約3倍

​国の位置と特色​

​国の面積はアメリカ大陸では8番目に、
世界的には​
27番目に大きい国である。
かつてはより広大な国土面積を有し
ていたが、
周辺国との戦争に負け続け
たために現在では最大時
の半分ほど。

北と東をブラジル、南をアルゼンチン、
南東をパラ
グアイ、南西をチリ、
北西をペルーに囲まれた内陸
国である。

ラテンアメリカでも最も開発が低い
水準にある国の
一つで、かつて
「黄金の玉座に座る乞食」と形容さ

れたほど豊かな天然資源を持つが貧し
い国であり、
現在もその構図は変わっ
ていない。

独立前はアルト・ペルー(上ペルー、
高地ペルー)と
呼ばれていたが、
独立に際してラテンアメリカの解放

として知られるシモン・ボリバル将軍
と、
アントニオ・ホセ・デ・スクレ将
軍に解放されたこと
を称えて、国名を
ボリビア、首都名をスクレ

(旧チャルカス)と定めた。

失った国土は旧国土の半分強

独立時:
237万平方キロ

現在:
109.9万平方キロ

▼1884年 チリとのバルパライソ条約
で銅と硝石の
鉱山が豊富な太平洋岸の
領土(リトラル県)を割譲し、

海への出口を持たない内陸国になる
(正式には1904年)。

▼1903年 アクレ紛争に結果的に敗北
し、ゴムの
一大生産地だったアクレ
県をブラジルに割譲。

▼1938年 チャコ戦争が正式に終結。
ブエノスアイレス講和条約により
チャコ地方が
パラグアイの領土となる

​国土の地理分類​

1.「チチカカ湖およびアンデス山脈
  地域」29%

  標高3千m以上の年中寒冷気候。
  「高原地帯=アルティプラノ」という。

  チチカカ湖8,686平方km、ポーポ湖
  2,700平方kmの
巨大湖や 
  巨大な塩湖ウユニが広がる。

  首都ラパスはチチカカ湖近くにある。

2.「北東から東側のアマゾン熱帯
  地域」62%

 「東部平原地帯=リャノ」という。
  北方はアマゾン水系、

  南方はラプラタ水系に属している。

3.「中間地帯」9% 

 「渓谷地帯=バジェ」という。
  スクレ、コチャバンなどの盆地

  がある。

  温暖な果樹栽培適地。コカの
  栽培盛ん。

  コカ茶として現地では飲用され
  るが、米国、日本
などではコカ
  インとして抽出可能なので、
  麻薬取り
締まり対象である。
  現地では、日常のお茶で、

  高山病緩和、鉱山労働の重労働
  緩和などにも効果
あるとされる。

​人口

​1,135万人(2018年 世銀)​

​人口密度​

​10人​

​首都​

ラパス
(憲法上の首都はスクレ、
 1899年の「連邦革命」)

市域人口:88万人(2008年)

標高:3,600m強で
「雲の上の町」

東京からの大気圏距離:
 16,548km

時差:JST-13時間

サマータイムなし

<ラパスとスクレ間417km>

​民族​

​先住民41%,非先住民59%​

​言語​

スペイン語及びケチュア語,
アイマラ語を中心に

先住民言語36言語

​宗教​

​国民の大多数(95%以上)は
カトリック教徒​

​政体​

​立憲共和制​

​元首​

ジェアニネ・アニェス・チャベス
暫定大統領

(H.E. Mrs. Jeanine Áñez
 Chávez)

​議会​

​二院制(上院36名、下院130名)​

​政権​

(1)副大統領 未就任

(2)首相   なし

(3)外相 カレン・ロンガリク・
      ロドリゲス

(H.E. Mrs. Karen Longaric
  Rodríguez)

軍事
(ミリタリー
 バランス

  2019)

(1)予算

   約3億150万ドル

(2)兵役

   徴兵制

(3)兵力

   35,000人

​主要産業​

天然ガス,鉱業(亜鉛,銀,鉛,錫),
農業

(大豆,砂糖,トウモロコシ)

​GDP​

​407億米ドル(2018年IMF)​

​一人当たりGDP​

​3,622米ドル(2018年IMF)​

​GDP成長率​

​4.0%(2018年IMF)​

​物価上昇率​

​3.5%(2018年IMF)​

​失業率​

​4.0%(2018年IMF)​

​貿易額:輸出A​

​ 90.60億米ドル
(2018年国家統計局)​

​同  :輸入B​

 ​99.95億米ドル
(2018年国家統計局)​

​貿易品目:輸出​

​ 天然ガス,亜鉛,金(地金),
 大豆,銀

​同   :輸入​

​ 工業用品,機械,自動車・
 自動車部品,燃料・
潤滑油

​貿易相手国:
輸出​

​ ブラジル,アルゼンチン,インド,
 日本,韓国,
 米,コロンビア,
 中国

​同    :
輸入​

​ 中国,ブラジル,アルゼンチン,
 ペルー,米,チリ,日本,スペイン​

対日輸出

​  158億円
2018年,日本財務省貿易統計)​

​ 内訳​

​亜鉛,銀,コーヒー,砂糖,木材等​

​対日輸入​

 ​ 438億円​

 ​内訳​

​自動車・自動車部品,機械,
工業用品等​

直接投資受入額

​ なし
(日本から2018年)

​在留邦人数​

​2,991人(2018年)
(外務省「在留邦人数調査統計」)​

​日系人 ​

​約1万人(推定)​

主要援助国DAC

2016年

(1)ドイツ(3,469万米ドル)
(2)スイス(3,038万米ドル)
(3)デンマーク(2,343万米ドル)
(4)スウェーデン(2,214万米ドル)
(5)ベルギー(2,076万米ドル)

日本の経済援助

2010年度まで

(1)有償資金協力 1,110.06億円
  (E/Nベース)

(2)無償資金協力 916.19億円
  (E/Nベース)

(3)技術協力実績 735.11億円
  (JICA実績ベース)

​世界遺産​

​概略(WEB情報より)​

​ポトシ市街​

16世紀に設置され、人口も一時
は20万人を数えた。
労働力としてアフリカ人奴隷も連
れてこられている。
スペイン統治時代に金・銀を多く
産出する鉱山が開発され、45千
トンの銀などを産出したが、
19世紀にはすっかり枯渇。
標高4千mの人が住む町では世界
最高地点。

市域人口:16万人(2007年)

​チキトスのイエズス会
伝導所群​

​チキトスに残る6つの伝道所。
スイス人のイエズス会宣教師マルティン・シュミット
は、建築家でもあり音楽家でも
あった人物で、「混血の」バロック
様式で建てられた伝道所の大変美し
い聖堂群は、彼に多くを負っている。
「金メッキを施されたもの」)と
呼ばれる金色のまばゆい祭壇もある。
壁面の絵画もこれまた素晴らしい
ものである。​

​古都スクレ​

​最高裁判所があるだけで、
その他の国家機関はほぼラパスに
集まっている。
今も16世紀に建造されて以来蓄積
されてきたコロニアル様式の古い
町並みが残っている。
白く美しい建物が多いため、
「白の街」と呼ばれることもある。​

​サマイパタの砦​

​砦と呼ばれるが、実際には軍事
拠点ではなく、コロンブス到達
以前の宗教的な遺跡である。
おそらくはインカ人たちによって
建てられた。
この遺跡は空飛ぶ円盤の発着施設
跡と主張するものもいた。​

​ティワナク文化中心地​

​首都ラパス近くのチチカカ湖の
東沿岸(そこから17km)にある。
ティワナクはプレ・インカ期の
遺跡名、およびその管区と村の
地名。
また、その時代の社会や文化を
さす言葉としても用いられる。
破壊がすさまじく、めぼしい
ものはない。
ただし、遺跡に付設する博物館に
出土遺物を展示。​

​ノエル・ケンプ・メ
ルカード国立公園​

 

​調査研究者の名を冠す、
元の名はウアンチャカ国立公園。
ブラジルとの国境にあり、大小
様々な湖がある。
川が合流する地域で、いくつかの
滝を形成し、アルコ・イリスの滝は
80mあり壮観である。​

​​​​





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Last updated  Jan 27, 2020 09:06:30 AM
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