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テーマ:DVD映画鑑賞(14186)
カテゴリ:ホラー映画
「オープン・エンド(open-ended)」とは、「終わりが決められていない」(プログレッシブ英和中辞典)「明確な結論を出さない」「各自の判断に任せる」(野口芳宏HP)などの意味があるようです。
私の大好きな「ガメラ大怪獣空中決戦(1995)」。ガメラが執念で怪鳥ギャオスを追いつめ、必殺プラズマ火球で倒す。やったぜ、ガメラ!続く「ガメラ2レギオン襲来(1996)」では、宇宙怪獣レギオンに苦戦するも、超自然エネルギーを集めたガメラは、それをウルティメイト・プラズマとして放出!レギオン、消滅。よかったぁ。地球は守られたぞ。 そして三部作のラストを飾る「ガメラ3 邪神<イリス>覚醒(1999)」。中盤、ガメラと異常発生したギャオス・ハイパーが渋谷の町で大激闘を繰り広げます。これはクライマックスに向けて、さらに大迫力バトルが見られると期待が高まりました。新怪獣イリスとガメラのからみと同時進行で、ギャオス・ハイパーが世界各地で大量発生して日本を襲ってきた。航空自衛隊はスクランブル発進だ。 ガメラは、京都駅構内で、特撮映画史上初の屋内怪獣決戦でイリスに勝利します。この閉ざされた空間での静的ともいえる闘いぶりは、迫り来るギャオス・ハイパー大軍団とのダイナミックな空中戦を盛り上げるためなのだな。もう、私の頭の中は、次に来るであろうガメラと航空自衛隊の連合軍対群れをなすギャオス・ハイパーの大空中戦が描かれていた。自衛隊ジェット戦闘機のミサイルが乱れ飛ぶ。ガメラはプラズマ火球を連射してギャオス・ハイパーを打ち落とす、といった迫力映像を先取り、期待感が満杯だ。 イリスを倒しながらも、満身創痍、疲れた体を引きずって、京都からギャオス・ハイパー迎撃に向かうガメラ。悲壮感が漂う、と、そこで画面は暗転。エンドタイトルとともに主題歌が流れ出す。え、終わりなの?ガメラ、航空自衛隊連合軍とギャオス・ハイパー軍団の闘いはどこへ・・・。 話は長くなりましたが、これが「オープン・エンド」です。「ストーリーがどんな終わり方なのか、決められていない」「ガメラが勝つのかギャオス・ハイパーが勝つのか、明確な結論を出されていない」「この後の展開は、各自の判断に任せられている」のだ。 ガメラにおいては、3本のうちの1本が「オープン・エンド」でしたが、これを多用する映画監督がいます。カルト系のジョン・カーペンターがその人です。これから、ジョン・カーペンターの「オープン・エンド」を見ていきます。 ジョン・カーペンターが尊敬するハワード・ホークスの「遊星よりの物体X(1951)」をリメイクした「遊星からの物体X」(タイトルがまぎらわしい)。宇宙を飛んで地球にやってきた物体Xは、南極に不時着する。そいつは、地球上の生物に入り込み、同化擬態し、増殖することができた。アメリカ南極観測隊に、物体Xが侵入する。次々と隊員を取り込む物体X。だれが本物の人間か、物体Xかわからない。疑心暗鬼の恐怖。 物体Xは、犬に擬態した姿で、突然自らの頭を4つに裂いて見せる、あるいは擬態した人の腹に、ノコギリ歯の生えた大きな口を出現させて噛みつく、切り落とされた人の頭から蜘蛛のような蟹のような脚を出現させてノコノコ歩くなど、びっくりどっきりおぞましい姿をさらけだす。 疑心暗鬼の積み重ねによる不安感、人が見ていないところで死体がかすかに動いたり、体液が滴り落ちたりする恐怖の描写、犬や人体を変形させて登場するショッキング・モンスターが、出現するたびにパワーアップしていく圧倒感。この作品は、じつに虚構を堪能できて、のめりこみます。 隊員たちは、物体Xに取り込まれ、殺されていく。物体Xを人間社会に出してはいけない。南極基地を焼き払い、極寒の屋外に最後に残った隊員二人。抑え気味の音楽が静かに鳴り響く「ド、ドン、ドーン」。そこで映画は終了。 私はこの作品を池袋文芸座のSF映画特集で見た。息をもつかせぬ迫力ある映像の連続で、 映画が終わっても席を立てなかった。しかし、二人のうちどちらかは物体Xなのか?彼らは生き延びられるのか?物体Xを退治することができたのか?はっきりしてくれぇ! 「ゴースト・オブ・マーズ(2001)」では、火星にやってきた人間が、古代遺跡を発見し、封印を解いてしまう。そこには火星の先住民族のゴーストが封じ込めてあった。ゴーストたちは人間に憑依し、人間たちを襲う(「遊星からの物体X」に似た話?)。火星警察たちは、ゴーストたちと激闘を繰り広げ、最後は核爆弾でその一帯を破壊する。 命からがら逃れて都市部に救出された火星警察の副隊長メラニー。ほっとするのも束の間、そこにもゴーストの襲撃が。先に生き別れた囚人ジェームズが現れ、銃を差し出す。二人はやる気満々、元気にゴーストに向かっていく。はい、おしまい。 「遊星からの物体X」の暗い終わり方とは対照的だけど、明るければいいってもんじゃない。人類は、火星ゴーストに勝利したのか、乗っ取られてしまったのか?一体どっちだ? 「ゼイリブ(1988)」は、一人の失業者がサングラスを手に入れる。それで見ると、地球を侵略するエイリアンを見分けることができる。彼は、エイリアンを阻止しなければと奮闘する。ラストの決着は、宇宙人を撃滅か、と思うけれど、悲しいかな主人公は一失業者。警察でも軍隊でもない。ましてや超能力をもったスーパーヒーローでもない。 それどころかエイリアンと闘う以前に、宇宙人を信じるか信じないかで仲間とプロレスまがいの大格闘を延々と続ける(主役のロディ・パイパーはプロレスラー。だからって無意味な闘いを10分も繰り広げるなんて)。主役は、体力を消耗するばかりで問題解決に向かわない。 なんとかエイリアンの正体をカモフラージュする装置を破壊し、サングラスなしでもエイリアンの正体が白日のもとに晒された。これから人類とエイリアンの闘いが始まるのか・・・とそこまでで映画は終わり。 私としては、「この後の展開は、観客の判断に任せるよ。各自が続きを自由に想像して」といわれたとしても、できません。自分の頭の中で作業をするよりも、映像として見せてほしいのです。お話はお話として、きちんと問題解決させてほしい。ゴールが無限大に広がると、どこに向かって走ったらいいかわからないよぉ。ああもどかしい。作品が出した答が気に入らない場合は、そこを修正する形で、考えることもできるのですが。 ジョン・カーペンターといえば出世作は「ハロウィン(1978)」。主人公に影のようにつきまとうブギーマン、その正体は殺人鬼マイケル・マイヤース。いよいよブギーマンが迫ってくると、襲われた相手は、刃物で刺し、鈍器で殴って抵抗する。一旦は倒れるブギーマン。しかし、すぐまた立ち上がって襲いかかる。 ようやくのことでかけつけたサム・ルーミス医師が銃弾を何発も撃ち込み、ブギーマンは建物の2階から庭へ落下する。こんどこそ死んだだろうと思うと、さっきまで横たわっていたブギーマンの姿がそこにはいない。このラストは、恐怖の余韻を残します。効果的なオープン・エンドですね。 映画会社は後日談としての「2」をつくってしまいますが、それはないことにした方が恐怖は深まります。 私はジョン・カーペンターが嫌いではありません。素晴らしき虚構の世界へ誘ってくれますから。ただ、「この後は、アンタが自分で考えなさい」といわれるとできないんです。映画の結末が気になって、悪夢を見てしまいます。 人気blogランキングに参加中。クリックしてください。 ご協力、よろしくお願いします。 みんなブルース・リーになりたかった お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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