夏の葬式はロマンチック・・
日記2日目にして「夏の葬式は云々」とは・・いかにまあでも書きましょう・・この歳になると、とかく慶弔事に出合います。とりわけ葬儀に出ることが多くなります。知人・友人の別れに立ち会うことが多くなり、生の終焉というものを度々確実なものとして目の当たりにさせられますと、つい悲しみというものが麻痺してくるようにも思えます。(但し当然場合にもよるでしょう。 私だって悲しいときは人一倍悲しいのです)最近父が亡くなりました。1月には家内の父が亡くなり、慌ただしく半年が過ぎました。父の葬儀は,ひなびた城下町の建立300年という小さなお寺で私が喪主として執り行いました。火葬し、再び寺に帰る。葺き替えたばかりの、そこだけが目立つ寺の甍の先に広がる青空と白い雲・・その下、本堂に続く広縁に、集うのはこのような時ばかりの親類縁者達は、めいめい胸元を緩め、精進落としの膳が出るまでしばしくつろいでいます。私も足を投げ出しぼんやりと、寺の低い塀の向こうに連なるやはり古い民家の家並上に広がる青空と白い雲を眺めていました。父の最期辺りは頻繁に帰郷し、病床に添うことができましたので、迫る別れにたいする想いも感慨も、ゆっくりと遠ざかっていきました。私はぼんやりとしながらも、身内との別れに、悲しみは悲しみとして、どこかに自分を含めた周りの光景を、冷静に見つめている自分に気付きます。切なくもなぜかほの甘いこの光景・・随分以前、ある葬儀にでました。農村地帯の自宅葬として行なわれたその告別式が終わり、そのお宅から、故人を乗せた黒光りの霊柩車は合掌する人々を背に、濃い緑の田園地帯を遠ざかっていきました。私もそれを見守りながら、不謹慎にも、葬儀というものに何故かロマンチックなものを感じていました。そのときも父の葬儀と同じく 空には青空と白い雲が広がって蝉の声が降り注いでいました・・※きざにすみません でも本当になぜかせつなくも・・ 次は楽しいことを書きましょうね。