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カテゴリ:高杉晋作
長州正義派 尊皇攘夷を志向して藩政を指導し、八月十八日の政変ならびに禁門の変を引き起こし長州を存亡の危機に陥れる。 征長軍が迫る中でも藩政改革(主に軍備軍制改革)を主張し、謝罪はすれども責任者の処罰や領地割譲を断固拒否する武備恭順を説いた。 しかし俗論派が藩政を握ると、高位の正義派藩士の多くが投獄・処刑される。 · 福原元僴 (長州藩家老) · 益田親施 (長州藩家老) · 国司親相 (長州藩家老格) · 清水親知 (長州藩家老格) · 宍戸真澂 (長州藩士) · 山田亦介 (長州藩士) · 前田孫右衛門 (長州藩士) · 竹内正兵衛 (長州藩士) · 毛利登人 (長州藩士) · 松島剛蔵 (長州藩士) · 中村九郎 (長州藩士) · 佐久間左兵衛 (長州藩士) · 大和弥八郎 (長州藩士) · 渡辺内蔵太 (長州藩士) · 楢崎弥八郎 (長州藩士) · 周布政之助 (長州藩士) 長州正義派諸隊 長州藩の攘夷方針に従い、兵力増強のために長州藩士のみならず、長州藩士以外の武士・庶民を兵員として編成された混成部隊の総称。 主な部隊に奇兵隊、御楯隊、遊撃隊、八幡隊、南園隊、力士隊などがあり、幹部や兵員には長州出身者だけでなく、他藩の脱藩浪士や攘夷志士が多く参加した。 高位の正義派藩士が追い落とされ、長州全体が俗論派に牛耳られる中、藩政府の統制を離れ、最終的に決起して俗論派の萩藩政府を打ち破る。決起時の総員は750人。うち奇兵隊が400人を占めたと言われる。 諸隊の大半は正義派に属したが、萩野隊や力士隊の一部は俗論派の萩藩政府につき正義派諸隊と戦った。 · 高杉晋作 (長州藩士 奇兵隊創始者) · 井上聞多 (長州藩士 鴻城隊総督) · 赤禰武人 (長州藩士 奇兵隊総督) · 山県狂介 (長州藩士(中間) 奇兵隊軍監) · 石川小五郎 (長州藩士 遊撃隊総督) · 伊藤俊輔 (長州藩士 力士隊総督) · 太田市之進 (長州藩士 御楯隊総督) · 佐世八十郎 (長州藩士 高杉の参謀) · 吉富簡一 (周防国矢原村の豪農) 長州俗論派 長州藩内の佐幕派。 長州に征長軍が迫る際、正義派を追い落とし藩政を握る。 幕府への絶対(純一)恭順を説き、正義派高官を捕らえ大量に処刑するなど強権的な勢力であったという。 ただし正義派高官の処刑については幕府(征長軍)が促した為とされる資料もある。 · 椋梨藤太 (長州藩士 政務座) 鎮静会議員・その他長州藩士 長州藩士は正義派・俗論派に別れ相争ったと言われるが、実際は大半の藩士がどちらにも属さず、両派の争いを止めようとした。 その中でも特に両者の停戦に尽力した一派は東光寺派、あるいは鎮静会議員と呼ばれた。 また正義派に同情的であっても、私情は私情として、実際の行動は藩政府の指示に従う藩士も多かった。 · 杉孫七郎 (長州藩士) · 浦元襄 (長州藩士) · 根来上総 (長州藩士 馬関総奉行) 長州藩侯 長州藩主萩藩の最高権力者であるものの指導力を発揮できず、時々に藩政を牛耳る正義派・俗論派の両方の意見に半ば盲目的に従った。 · 毛利敬親 (前長州藩藩主 隠居したものの長州藩内ではトップと目されていた。) · 毛利元徳 (長州藩藩主 敬親子息) 長州支藩 長州には複数の支藩があり、支藩藩主らは概ね尊皇攘夷思考で正義派に同情的であったが、正義派・俗論派の争いは宗藩である長州本藩の内部抗争であり、積極的な介入は避けた。 しかし長州藩内の独立勢力である事は間違いなく、俗論派が長州本藩を掌握し正義派諸隊に圧力をかけると、長州本藩内に居場所をなくした諸隊は、許可を得ずに長府藩に移動し、支藩藩主らに正義派への助力を乞うようになる。 · 毛利元周 (長府藩藩主) · 毛利元純 (清末藩藩主) · 三吉周亮 (長府藩次席家老) 長州藩岩国領 長州には支藩の他に、関ヶ原の戦いの経緯により江戸幕府から半ば独立勢力と認められた岩国領があった。 長州藩毛利氏の家臣であり岩国領領主である吉川経幹は、朝敵認定され、かつ内乱状態に陥り身動きの取れない長州本藩の代わりに、長州藩を代表して幕府と和戦交渉をした。 吉川は、征長軍との開戦回避のために正義派幹部の処刑をしきりに求めた為、高杉からは俗論派筆頭・奸臣と憎悪された。 しかし征長軍が困難な休戦条件を持ち出す度、長州本藩の利益と藩主父子の安全を最優先に交渉に臨み、戦争を回避させたのも吉川であった。 · 吉川経幹 (岩国領領主) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年09月09日 13時03分21秒
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