495631 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

歴史の回想のブログ川村一彦

歴史の回想のブログ川村一彦

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

プロフィール

歴史の回想・川村一彦

歴史の回想・川村一彦

カレンダー

バックナンバー

カテゴリ

日記/記事の投稿

コメント新着

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2023年10月18日
XML
カテゴリ:戦国




  
その後は旗本として1,400石余を加増され(『寛政重修諸家譜』)、河内三郡の内で2,020石を領した。


   その後、慶長9年(1604)に因幡守に任官し、大坂の陣にも出陣し、戦場であった河内の案内に功績があったとして表彰され、鷹狩の許可を得た上茶器を与えられるなど厚遇されたといわれるが、恐らく息子であろう(系図上では為三は因幡守となっているが天野忠幸によれば因幡守は為三の息子であるとする)。秀忠の御咄衆となり、寛永8年(1632)に96歳で死去した。


   なお、真田十勇士の1人・三好伊三入道のモデルとされている。姓名が一致こそするものの為三自身は真田氏とは関係はない。


   また真田信繁の側室隆清院は、三好康長の養子となった三好信吉(豊臣秀次)の娘とされているが、為三とは何の関係もない。


   香西 元成(こうざい もとなり)は、戦国時代武将細川氏の家臣。讃岐国勝賀城主。


   細川氏の忠実な家臣で、天文16年(1547)の舎利寺の戦いに参戦、内藤氏三宅氏と共に軍を率いて功績を挙げた。天文18年(1549)の江口の戦いにおいては摂津国三宅城を守り三好政長を救援して三好長慶と戦ったが、政長は敗死し、主君の細川晴元も長慶に京から近江国へ追われることになる。


   それからは三好政長の子・政康為三兄弟と行動を共にして丹波国を拠点に長慶への抵抗を始め、天文20年(1551)3月に為三と共に丹波から下向して京都を襲撃、一旦引き上げた後7月に再び入京して相国寺へ立て籠もるが、長慶が派遣した松永久秀長頼兄弟に敗れ逃亡した(相国寺の戦い)。


   天文22年(1553)、室町幕府13代将軍足利義輝が細川晴元支持を表明すると7月に京都へ進み義輝・晴元と合流、8月に霊山城が落とされ義輝らが近江へ逃れた後も反長慶の姿勢を崩さず、9月に三好為三・波多野晴通と組んで丹波守護代内藤国貞を討ち取り八木城を奪ったが、松永長頼に奪い返された。播磨国国人明石氏と結託したが、こちらも天文24年(1555)に長慶に降伏、かえって長慶の勢力拡大に繋がった。


   その後も長慶に徹底して対立・抵抗したが、永禄3年(1560年)、山城国炭山城で三好氏と戦い討死した。


   三好宗渭、為三らと共に織田信長と戦い、元亀元年(1570)の野田城・福島城の戦いで降伏した後、再び本願寺に味方して天正3年(1575)に堺の近辺の新堀の出城に籠城して織田軍に捕えられ誅殺された「香西越後守」は、名乗りから考えて元成の後継者と考えられるが、その素性は明らかでない。


 


Ø  長慶に従い幕政にも関与するようになり、長慶が畿内を平定した天文22年(1553)に摂津滝山城主に任ぜられる(弘治2年(1556)7月とも)。


   同年9月には長頼と共に丹波国波多野秀親の籠る数掛山城を攻めるが、波多野氏の援軍に訪れた三好政勝、香西元成に背後から奇襲を受け惨敗を喫する。


   この戦いで味方の内藤国貞が戦死を遂げ、内藤家に混乱が生じる。


Ø  その後は長頼が国貞の遺子である千勝の後見人をするという形式で内藤家を継承、丹波平定を進めていった。


   天文24年(1555)、久秀は六角義賢の家臣・永原重興に送った書状の中で、将軍・義輝を「悪巧みをして長慶との約束を何度も反故にして細川晴元と結託しているから、京都を追放されるのは『天罰』である」と弾劾している。


Ø  また長慶の書状も併せて送り、長慶が天下の静謐を願っていることを伝えている。弘治2年(1556)、奉行衆に任じられ、6月には長慶と共に堺で三好元長の二十五回忌に参加している。


Ø  同年7月、久秀の居城滝山城へ、長慶が御成し、歓待された。久秀が千句連歌で、そして観世元忠の能で長慶をもてなした。


   滝山城(たきやまじょう)は、兵庫県神戸市中央区の城山にあった日本の城山陽新幹線新神戸駅の裏山、「布引の滝」の西に位置する。


   兵庫県神戸市中央区の城山の標高は316.5m、比高は約250m。開発が盛んな神戸の地にあって、の状態は良好で30以上の曲輪群、堀切、土塁などが残っており、戦国時代の姿がそのままの形で残っている貴重な城跡である。


   また城跡へは山陽新幹線新神戸駅より左に登っていくハイキングコースが整備されている。


   滝山城の歴史は大きく赤松氏時代と戦国時代に分けられる。


   赤松氏時代


   滝山城の築城年代は定かではないが、文献上の初見は『正慶乱離志』で、とあり、この「生田の布引の城」と記載されているのが滝山城の事である。


   元弘3年(1333)1月11日、大塔宮護良親王の命を受けた赤松則村(円心)は白旗城に挙兵して麻耶山城まで出軍し、千早城に立て籠もる楠木正成を援護し(元弘の乱)、自らも京都を狙っていた。


   同年2月11日に麻耶山城に六派軍をおびき寄せ、側面攻撃し六派軍を敗退(六波羅の戦い)させた。


   赤松軍はこれを好機と捉え、京都近くまで攻め上ったが、今度は逆に六派軍に反撃され滝山城に立て籠もったようである。


   赤松軍は同年4月3日に滝山城を出撃して六派軍を攻撃したがまたしても敗れた。赤松軍は千種、結城軍の援軍を得て、六派軍を八幡、山崎で破り、5月7日に足利尊氏軍と協力して入京を果たした。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2023年10月18日 06時23分34秒
コメント(0) | コメントを書く



© Rakuten Group, Inc.
X