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歴史の回想のブログ川村一彦

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2023年10月18日
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カテゴリ:戦国




  
順慶は井戸良弘に命令して辰市城築城に着手、7月3に完成した同城は松永攻略の橋頭堡となった。城の着工が迅速に行われた背景には、順慶を支持する地元の人々の経済的な支援があったと考えられる。


   勢いに乗った松永久秀・久通父子、三好義継らの連合軍は、8月4には辰市城に迫り大規模な合戦に及んだ。


   しかし順慶は、これを迎え討ち、松永軍に大きな被害を与え、久秀の甥や重臣の竹内秀勝らを打ち取り首500を挙げた。


   敗戦した久秀は筒井城を放棄し、順慶は再び筒井城を奪還することに成功した。筒井城の奪還によって、信貴山城多聞山城を繋ぐ経路が分断され、久秀は劣勢に立たされることとなった。


   織田信長に臣従


   元亀2年10月25日、順慶は明智光秀の斡旋をもって信長に臣従し、久秀も佐久間信盛を通じて信長に臣従したので、同年11月1に光秀・信盛の仲介で順慶と久秀は和睦した。やがて久秀は同じく信長と反目するようになった将軍・足利義昭などと結託する(信長包囲網)が、順慶は北小路城に久秀・久通父子を招待して猿楽を催すなど表面上はしばらく円滑な関係が続いた(『和州諸将軍伝』)。


   元亀3年(1572年)4月、久秀は信長に対する叛意を明らかにし、三好義継、三好三人衆らと組んで信長に謀反を起こした。


   元亀4年(1573)になると4月に武田信玄が病死、7月に義昭が槙島城の戦いに敗れて京都を追放され、それを匿った三好義継も11月に信長に討伐されると(若江城の戦い)、12月、松永久秀も多聞山城を取り巻かれ和議を申し込み、同城を明け渡す条件で降伏した。


   12月26日、多聞山城は開城された。この頃に順慶は信長に接近していたと見られ、松永方となっていた河内私部城を陥落させている。


   翌天正2年(1574)正月、久秀は岐阜城に伺候しており、同じ月に順慶も岐阜を訪れ織田信長に拝謁し、3月23日、信長の臣従に際しその証として母親を人質として差し出している(『多聞院日記』)。


   その後、順慶は信長傘下で参戦する。天正3年(1575)2月27日、信長の娘か妹を妻に迎える(『多聞院日記』)。


   同年3月に原田直政が大和守護に任命され、その与力となり、同年5月の長篠の戦いに信長に鉄砲隊50人を供出、同年8月の越前一向一揆攻略にも原田直政が率いる大和軍勢総員の内の隊で参戦した。だが、原田は天正4年(1576)5月3日、石山本願寺戦の三津寺砦攻めで戦死する。


   同年(15765月10、信長により明智光秀と万見仙千代が使者となり「大和一国一円筒井順慶存知」で大和国支配を任される(『多聞院日記』同日条)。同時期に明智光秀の与力となる。


   5月22には、人質として差し出していた順慶の母が帰国した。母の帰国を許可されたことの返礼も兼ねて、順慶は築城中であった安土城を訪問、信長に拝謁し、太刀二振に柿、布などを献上し、信長からは縮緬や馬を賜っている。


   5月30日、光秀が石山本願寺戦の陣地内で重病となり、一乗院で坊衆7人に祈祷させている。


   天正5年(1577)、順慶は他の諸将と共に雑賀一揆の反乱を鎮圧した(紀州征伐)。同年、久秀が信長に対して再度反旗を翻すと、信貴山城攻めの先鋒を務めている(信貴山城の戦い)。


   手始めに片岡城を陥落させ、続いて信貴山城へ総攻撃が行われた。10月10、遂に城は陥落、久秀父子は切腹または焼死した。


   信貴山城陥落については、順慶が本願寺の援軍と称して潜入させた手勢が内部から切り崩しを行い、落城に貢献したと『大和軍記』は伝えている。


   また、『大和志科』は、久秀の遺骸を順慶が回収し、達磨寺に手厚く葬ったと記述している。


   『和洲諸将軍伝』にも、久秀の遺骸が達磨寺に葬られた旨の記述があるが、ここでは久秀の遺骸を回収し葬った人物は「入江大五良」と書かれている。


   久秀父子の滅亡もあって、天正6年(1578)に大和平定が果たされた。同年、信長の命令により龍王山城を破却している。


   同年4月、播磨攻めに参戦。6月には神吉頼定が籠城する神吉城を攻撃している。帰国後の10月には、石山本願寺に呼応した吉野の一向衆徒を制圧する。


   天正7年(1579)には、信長に反逆した荒木村重が篭る有岡城攻めに参加した(有岡城の戦い)。


   天正8年(1580)、居城を筒井城から郡山城へ移転する計画を立てていた所に、8月に信長より本城とする城以外の城の破却を促す命令が出る。


   順慶は筒井城はじめ支城を破却し、築城した郡山城に移転した。筒井城から郡山城へ拠点を移した根拠としては、筒井城が低地にあり、水害の影響を被りやすかったという問題があった。


   同年9月8日、信長が大和一帯の差出検地を順慶に命じ、12月まで明智光秀と滝川一益が奉行として派遣されて実行している。これに伴い、10月28日に戒重・岡弥二郎・大仏供・高田当次郎など、かつて松永久秀に追従していた筒井家配下の人物達が、信長に一度離反した咎で明智光秀らの主導で処断された。


   11月7日付「国中一円筒井存知」の信長朱印状で正式に大和一国が任され、郡山城入城が言い渡される。


   翌天正9年(1581)6月3日、かねてより確執があった吐田遠秀を郡山城で謀殺し、6月15日にその領地を与えられている(『多聞院日記』各同日条)。


   同年の天正伊賀の乱では他の武将と共に織田信雄に属し、9月3日に大和から伊賀へと進攻、3,700の手勢を指揮し、蒲生氏郷と共に比自山の裾野に布陣するが、伊賀衆の夜襲を受け、半数の兵士を失う苦戦を強いられる。


   この時、伊賀の地理に精通していた菊川清九郎という家臣が順慶の窮地を救ったと言われる(比自山城の戦い)。


   その経緯については『伊乱記』が詳しく描写している。






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最終更新日  2023年10月18日 07時39分06秒
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