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歴史の回想のブログ川村一彦

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2023年10月30日
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カテゴリ:戦国





7「川中島の戦い


Ø  天文22年(1553)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎(上杉謙信)は本格的な信濃出兵を開始し、以来、善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となる(第1次川中島の戦い)。


Ø  この時は、景虎方に武田軍の先鋒を布施・八幡にて撃破される。景虎は武田領内深く侵攻するも晴信は決戦を避ける。その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退した。同年8月には景虎の支援を受けて大井信広が謀反を起こすが、晴信はこれを直ちに鎮圧した。


Ø  晴信は信濃進出に際して、和睦が成立した後も軍事的な緊張が続いていた駿河の今川氏と相模の北条氏の関係改善を進めており、天文23年(1554)には嫡男義信の正室に今川義元の娘嶺松院(信玄の姪)を迎え、甲駿同盟を強化する。


Ø  また北条氏康の嫡男氏政に嫁がせ甲相同盟を結ぶ。今川と北条も信玄及び今川家の太原雪斎が仲介して婚姻を結び、甲相駿三国同盟が成立する。


Ø  三国同盟のうち、北関東において景虎と抗争していた北条氏との甲相同盟は景虎を共通の敵として相互に出兵し軍事同盟として特に有効に機能した。


Ø  この年、佐久郡や伊那郡・木曽郡に残されていた反武田勢力を完全に鎮圧して南信地方を安定化させた。しかし、その一方で、三河・美濃・信濃の国境地帯に勢力を持つ東濃地方の岩村・苗木の両遠山氏も信玄への臣従してきたたために、美濃を支配する斎藤道三義龍父子とも緊張関係を生じさせることになった。


   天文24年には川中島において再び長尾景虎と対陣している。


   弘治3年(1557年)には室町幕府将軍足利義輝による甲越和睦の御内書が下される。これを受諾した景虎に対し、晴信は受託の条件に信濃守護職を要求し、信濃守護に補任されている。


   甲斐国志』に拠れば、永禄2年(1559年)2月に晴信は長禅寺住職の岐秀元伯を導師に出家し、「徳栄軒信玄」と号したという。


Ø  文書上では翌年に信濃佐久郡の松原神社に奉納している願文が「信玄」の初見史料となっている。


Ø  出家の背景には信濃をほぼ平定した時期であることや、信濃守護に補任されたことが契機であると考えられているほか、永禄2年(1559年)に相模後北条氏で永禄の大飢饉を背景に当主氏康が家督を嫡男氏政に譲り徳政を行っていることから、同じく飢饉が蔓延していた武田領国でも、代替わりに近い演出を行う手段として、晴信の出家が行われた可能性が考えられている。


Ø  「信玄」の号のうち「玄」の字は「晴」と同義であるとする説や、臨済宗妙心寺派の開山である関山慧玄の一字を授かったとする説[12]、唐代の僧臨済義玄から一字を取ったとする説などがある。


Ø  信玄は北信侵攻を続けていたものの、謙信の上洛により大きな対戦にはならなかったが、永禄4年(1561)の第四次川中島の戦いは一連の対決の中で最大規模の合戦となる。武田方は信玄の実弟である武田軍副将武田信繁をはじめ武田家重臣諸角虎定、足軽大将の山本勘助三枝守直ら有力家臣を失い、信玄自身までも負傷したという。


   川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。


   最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと呼ばれる。


   なお、上記の指揮官、戦力、損害については第四次合戦のものであることを断っておく。


   川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶ。実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみであり、一般に「川中島の戦い」と言った場合、最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年9月9(1561年10月17)から1018))を指すことが多く、一連の戦いを甲越対決として区別する概念もある(柴辻俊六による)。


   第一次合戦天文22年(1553


   第二次合戦:天文24年(1555


   第三次合戦弘治3年(1557


   第四次合戦永禄4年(1561


   第五次合戦:永禄7年(1564


   戦いは、上杉氏側が北信濃の与力豪族領の奪回を、武田氏側が北信濃の攻略を目的とした。武田氏の支配地は着実に北上している。


   なお、上記の「五回説」が現在では一般的であるが、異説も存在する。特に明治期には田中義成が軍記物の信憑性を否定し、上記第二次と第四次のみを確実とする「二回説」を提唱した。


   1929年には渡辺世祐がはじめて五回説を提唱し、戦後は小林計一郎以来この五回説が支持されている。






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最終更新日  2023年10月30日 12時08分56秒
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