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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年04月04日
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カテゴリ:戦国





「人物・逸話」


政宗が晩年に家臣の木村可親に対して懐旧談を語った際に、父・輝宗の名を「てり宗公」と訛って発音していたことが、木村の書き遺した覚書(『木村宇右衛門覚書』)から判明している。嫡男・政宗の教育にはとても熱心であり、元亀3年(1572)に甲斐国から快川紹喜の弟子である臨済宗虎哉宗乙禅師を招いたのをはじめ、多くの高名な儒学者・僧を伊達家の居城である米沢城に招き(政宗も川村重吉などを他国から招いている)、さらに片倉景綱屋代景頼湯目景康ら多くの有望な若手家臣を家中から選んで、早くから政宗に仕えさせた。


 


6、「伊達 政宗・葛藤編」(だて まさむね)は、出羽国陸奥国戦国大名で、伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主である。


幼名梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称された。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世「独眼竜」の異名がある。


永禄10年(1567)8月3日、出羽国米沢城で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗嫡男として、正室である最上義守の娘・義姫最上義光の妹)から生まれた。幼名は梵天丸。


天正5年(1577)11月15日、元服して伊達藤次郎政宗と名乗る。の「政宗」は父・輝宗が伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗にあやかって名づけたもので、この大膳大夫政宗と区別するため藤次郎政宗と呼ぶことも多い。史料上にも正宗と書かれたものが幾つかあるが、これは誤記や区別のための書き違えである。


伊達家はそれまで足利将軍からの一字拝領を慣習としてきたが、政宗の元服に際しては、当時織田信長によって京より追放されていた足利義昭からの一字拝領を求めなかった。


天正7年(1579)、伊達政宗が13歳の時、仙道の戦国大名であった三春城主・田村清顕の娘、当時12歳の愛姫(伊達政宗と同じく伊達稙宗曽祖父にもつ)を正室に迎える。


天正9年(1581)4月、隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で初陣を飾る。また、この頃から輝宗の代理として田村氏蘆名氏との外交を担当しており、蘆名盛隆が対相馬氏戦で援軍を送ったのは政宗の働きかけによるものである。


宮城県仙台市立福岡小学校の鹿踊剣舞を見てその踊るのを認め、沢山の褒美を与えた


「家督相続から摺上原の戦いまで」


天正12年(1584)10月、父・輝宗の隠居にともない家督を相続し、伊達家第17代当主となる。


この時、政宗は若年を理由に辞退を申し出たが、一門・重臣の勧めを受けて家督を譲り受けている。仙台藩の公式記録である『伊達治家記録』では、家督相続を10月6日から22日の間の出来事と記し、これについては現存史料でも輝宗の当主としての発給文書の終見が10月5日付で、政宗の当主としての発給文書の初見が10月23日付でしかも輝宗隠居の知らせを聞いた石川昭光(輝宗の実弟)からの問い合わせに対する回答と伝えられているため、この推定はほぼ正確と思われる。


この当主交代について、10月6日に会津の蘆名盛隆が家臣に暗殺されたことをうけて、輝宗がかつて蘆名盛氏(盛隆の養父)に対して自分の次男(小次郎)が成長したら盛氏の養子にする案を示した書状を交わしていたことを理由に、9月に生まれたばかりの盛隆の遺児蘆名亀王丸(亀若。小林は「亀若丸」とする。


母は輝宗の妹彦姫であり輝宗の実の甥)ではなく、実子の小次郎を蘆名氏の当主に送り込もうと計画したが、常陸の佐竹義重がこれに反対して、蘆名家中に対して亀王丸の家督相続を支持する書状を送ったために小次郎の入嗣計画が失敗し、それが引き金になって輝宗の隠居および政宗による蘆名氏との同盟破棄につながったと唱えている。


これに対して、垣内和孝は政宗は家督継承直後は蘆名氏との関係を修復する意向を持っていたとして、輝宗の隠居は蘆名氏の家督問題そのものよりも隣国の当主の不慮の死とそれに伴う混乱を見て、こうしたリスクを回避するために自分が健在のうちに次の当主への交代を決めたとしている[8]


小浜城主・大内定綱二本松城主・畠山義継と手を組み、田村氏の支配から離脱していた。大内氏は蘆名氏の支援を求め、田村氏は伊達氏の支援を求めることになった。


こうした状況を受けて、蘆名盛隆と畠山義継は輝宗父子に対して田村氏と大内氏の和睦を持ちかけていた。


一方、家督継承前から蘆名氏との外交に関わってきた政宗も蘆名氏や岩城氏と田村氏の和睦の仲介に当たろうとしていた。だが、前者は田村氏の婿である政宗が拒否し、後者は盛隆没後の蘆名氏が受け入れるところとならなかった。


伊達氏・田村氏と蘆名氏・大内氏の和睦の不成立は、長く続いた伊達氏と蘆名氏の同盟に終止符を打つことになる。


天正13年(1585)5月に蘆名領檜原を攻めると、8月には大内領小手森城へ兵を進め、近隣諸国への見せしめの為として撫で斬りを行い、城中の者を皆殺しにしている。


大内定綱の没落を間近で見た義継は和議を申し出、輝宗の取りなしにより五ヶ村のみを二本松領として安堵されることになった。


ところが輝宗は、所領安堵の件などの礼に来ていた義継の見送りに出たところを拉致される。当時鷹狩りに出かけていた政宗は、急遽戻って義継を追跡し、鉄砲を放って輝宗もろとも一人も残さず殺害した。






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最終更新日  2024年04月04日 10時27分51秒
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