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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年04月05日
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カテゴリ:戦国




9月17日、直江軍とは別に掛入石仲中山口を進軍してきた篠井康信、横田旨俊ら4000人が羽州街道最前線
上山城に攻めに取りかかった。守将は最上氏の家臣・里見民部であり城兵はわずか500ほどにしか過ぎなかったが、里見民部は城門を開けて打って出た。


上杉軍は一気に城兵を殲滅するため反撃に出た。城門付近で戦闘が繰り広げられたが、上杉軍の背後から、最上軍が襲いかかった。民部は、あらかじめ少ない兵を分散し、最上義光が与力として増派した草刈志摩に別動隊を率いさせて城の外に出して待ち伏せさせていたためである。


背後を襲われた上杉軍は混乱に陥り、最上勢はこの隙に上杉勢を攻める。上杉方は木村親盛坂弥兵衛なる者に討ち取られた他、椎名弥七郎をはじめとする将兵の多くが討たれた。


一方、最上勢も広河原で追撃中の草刈志摩が鉄砲に撃たれて討ち死にしている。里見は上杉軍400人余りの首を義光に送ったとされる。


この上山城攻めの苦戦で掛入石仲中山口からの上杉軍は、同時期に行われていた長谷堂城の戦いで戦闘中の直江本隊とは最後まで合流することが出来なかった。


一方、庄内飽海方面では最上方の支援を受けて朝日山城に復帰した池田盛周等が一揆を起こし、酒田東禅寺城主志駄義秀と対峙したものの、上杉軍を前に一揆勢は敗退し、志駄義秀は最上川を遡る軍で、下秀久は六十里越を通る軍で村山郡の最上川西岸地域に侵入した。


9月15日までに寒河江城白岩城が、9月18日までに谷地城長崎城山野辺城などが落城した(『上杉家御年譜』)。


また、直江兼続本隊の別動隊が白鷹方面から五百川渓谷沿いに進軍し、八沼城・鳥屋ヵ森城などを落として左沢まで進出した後山野辺で本隊と合流している。


各地で最上勢は地の利を生かしたが、兵力の差は大きくしだいに押し込まれていった。さらに上杉景勝に呼応して、最上義光と対立していた小野寺義道も、最上氏の属城である湯沢城(出羽国雄勝郡)を包囲攻撃し始めた。しかし、この戦いにおいて城将の楯岡満茂が善戦し、小野寺軍の侵攻は遅滞した。



長谷堂城の戦い


一方、直江兼続は畑谷城を落としたあと、長谷堂城近くの菅沢山に陣を取り、長谷堂城を包囲した。


長谷堂城は山形盆地の西南端にある須川の支流・本沢川の西側に位置し、山形城からは南西約8キロのあたりに位置する、山形城防衛において最も重要な支城であった。また、この時点で最上川西岸地域および須川西岸において唯一残る、最上氏側の拠点となっていた。


つまり、長谷堂城が落ちれば上杉軍は後顧の憂いがなくなり、須川を挟んだ攻防を経て山形城攻城戦に取りかかることは明らかだった。


9月15日最上義光は嫡男最上義康を当時北目城仙台市太白区)にいた伊達政宗に派遣し援軍を依頼した。伊達氏の重臣片倉景綱は両家を争わせて疲弊させるべきであるとして諌めたのに対し、政宗は「一つは家康のため、一つは山形城にいる母上(義姫・保春院)のために最上を見捨てるわけにはいかない」(『治家記録』)と述べ、16日付書状にて政宗は叔父留守政景を救援に派遣することを決める。


この時、長谷堂城は最上氏の重臣・志村光安以下1000名が守備し、攻め手は直江兼続率いる上杉軍1万8000人。通常攻城戦に必要な兵数は城方の3倍(確実を期すなら10倍とも)と云われているが、その点上杉軍は十分過ぎるほどの兵力を持って攻城戦にあたった。


9月15日、兼続は大軍を背景に力攻めを敢行。しかし志村は寡兵ながらも防戦し、9月16日には200名の決死隊を率い上杉側の春日元忠軍に夜襲を仕掛ける。


これにより上杉勢は同士討ちを起こすほどの混乱に陥り、志村は兼続のいる本陣近くまで攻め寄って、250人ほどの首を討ち取る戦果を挙げた。この時の鮭延秀綱の戦いぶりには、直江兼続からも「鮭延が武勇、信玄・謙信にも覚えなし」と言わしめ、後日兼続から褒美が遣わされたという。


9月17日、兼続は春日元忠に命じ、さらに城を攻め立てた。しかし、長谷堂城の周りは深田になっており、人も馬も足をとられ迅速に行動ができない。


そこへ最上軍が一斉射撃を浴びせて上杉軍を散々に撃ちつけた。業を煮やした兼続は、長谷堂城付近で刈田狼藉を行い城兵を挑発するが、志村は挑発には乗らず、逆に兼続に対し「笑止」という返礼を送ったとされる。


 


9月21日には、伊達政宗が派遣した留守政景隊3千の軍勢が白石から笹谷峠を越えて山形城の東方(小白川)に着陣し、9月24日には直江兼続本陣から約2キロ北東の須川河岸の沼木に布陣する。


また、最上義光も925日山形城を出陣し、稲荷塚に布陣した。ここにおいて一時戦況は膠着するものの、9月29日上杉勢は総攻撃敢行、長谷堂城を守る志村光安はなおも善戦し、上杉軍の武将・上泉泰綱を討ち取るという戦果を挙げた。



撤退戦、そして29日に、関ヶ原において石田三成率いる西軍が、徳川家康率いる東軍に大敗を喫したという情報が、直江兼続のもとにもたらされた。


敗報を知った兼続は自害しようとしたものの、前田利益(慶次郎)に諫められ、撤退を決断したとされる。


翌9月30日、最上勢も関ヶ原の結果を知ることとなり、攻守は逆転する。10月1日、上杉軍が撤退を開始、最上伊達連合軍が追撃した。


富神山の付近で陣頭に立つ最上義光の兜に銃弾が当たるなど激戦となり、両軍多くの死傷者を出した。追撃軍を迎え撃つため、直江兼続は自ら畑谷城に手勢と共に立てこもって殿をつとめ、10月3日に荒砥へ退却した。


前田利益や水原親憲などの善戦もあり、兼続は鉄砲隊で最上軍を防ぎながら追撃を振り切り、10月4日に米沢城へ帰還した。






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最終更新日  2024年04月05日 07時44分02秒
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