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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年04月19日
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カテゴリ:江戸時代





11、「浦上 春琴」(うらがみ しゅんきん、安永8年(1779 - 弘化3年184626))は、江戸時代後期の日本の文人画家。当時、鴨方藩士だった浦上玉堂の長子として備前国(現岡山県)に生まれる。


   浦上秋琴は実弟。は選、を伯挙・十千、は春琴のほかに睡菴・文鏡亭・二卿。通称は紀一郎もしくは喜一郎。


   戦国大名浦上氏の末裔という。幼少の頃より父・玉堂より書画の手ほどきを受ける。寛政4年(1792年)ころより如意道人によって玉堂とともに春琴の作品が買い上げられている(如意道人蒐集書画帖)。14歳のころ母が死去。寛政6年(1794年)、玉堂が脱藩。父子で諸国を歴遊する。


   江戸長崎では画塾に通い古書画を研鑽する。


   遊歴を終え20代で京都に定住し、頼山陽田能村竹田岡田米山人岡田半江篠崎小竹貫名海屋柏木如亭ら著名な文人との交わりを深める。


   文化8年(1811年)、藤木瀧と結婚。文化10年(1813年)より玉堂と同居(柳馬場二条北)し、夫婦で世話をする。


   文政3年(1820年)、玉堂歿。


   山水画花鳥画に優れ精彩で巧みでありながら透き通るような気品のある作風であった。 中林竹洞山本梅逸らと名声を競った。当時は父・玉堂の作品よりよく売れたという。また書道詩文平曲七絃琴に優れ、器物、書画の鑑定にも秀でていた。紀春琴の名で画論『論画詩』を著している。弘化3年(1846年)5月歿、享年68。


   「頼山陽と親交を深める」(らい さんよう、安永9年1227178121天保3年2318321016))は、大坂生まれの江戸時代後期の歴史家思想家漢詩人文人。幼名は久太郎(ひさたろう)、名は(のぼる)、字は子成山陽、三十六峯外史と号した。主著に『日本外史』があり、これは幕末尊皇攘夷運動に影響を与え、日本史上のベストセラーとなった。贈正四位


   父の頼春水は若くして詩文や書に秀で、大坂へ遊学し尾藤二洲古賀精里らとともに朱子学の研究を進め、江戸堀北(現・大阪市西区江戸堀の金光教玉水教会付近)に私塾「青山社」を開いた。


   青山社の近隣には篠崎三島、篠崎小竹、後藤松陰、並河寒泉ら多くの文人や学者が居住していた。山陽はこの頃の安永9年(1780年)、同地で誕生。母は飯岡義斎の長女で歌人の頼梅颸、その妹は尾藤二洲に嫁いでいる。


   天明元年(1781)12月、父が広島藩の学問所創設にあたり儒学者に登用されたため転居し、城下の袋町(現・広島市中区袋町)で育った。父と同じく幼少時より詩文の才があり、また歴史に深い興味を示した。天明₈年(1788)、広島藩学問所(現修道中学校・修道高等学校)に入学。


   その後春水が江戸在勤となったため学問所教官を務めていた叔父の頼杏坪に学び、寛政9年(1797)には江戸に遊学し、父の学友・尾藤二洲に師事した。


   帰国後の寛政12年(1800)9月、突如脱藩を企て上洛するも、追跡してきた杏坪によって京都で発見され、広島へ連れ戻され廃嫡のうえ自宅へ幽閉される。これがかえって山陽を学問に専念させることとなり、3年間は著述に明け暮れた。


   なお、『日本外史』の初稿が完成したのもこのときといわれる。謹慎を解かれたのち、文化2年(1809)に広島藩学問所の助教に就任。文化6年(1809)に父の友人であった儒学者の菅茶山より招聘を受け廉塾の都講(塾頭)に就任した。


   ところが、その境遇にも満足できず学者としての名声を天下に轟かせたいとの思いから、文化8年(1811)に京都へ出奔し、洛中に居を構え開塾する。


   文化13年(1816)、父・春水が死去するとその遺稿をまとめ『春水遺稿』として上梓。翌々年(1818)には九州旅行へ出向き、広瀬淡窓らの知遇を得ている。文政5年(1822)上京区三本木東山を眺望できる屋敷を構え「水西荘」と名付けた。


   この居宅にて営々と著述を続け、文政9年(1826)には代表作となる『日本外史』が完成し、文政10年(1827)には江戸幕府老中松平定信に献上された。文政11年(1828)には文房を造営し以前の屋敷の名前をとって「山紫水明処」とした。




   山陽の周辺には、京坂の文人が集まり、一種のサロンを形成した。その主要メンバーは、父・春水とも関係があった木村蒹葭堂と交友した人々の子であることが多く、大阪の儒者篠崎三島の養子・小竹、京都の蘭医小石元俊の子・元瑞、大阪の南画岡田米山人の子・半江、京都の浦上玉堂の子・春琴、岡山の武元登々庵が挙げられる。






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最終更新日  2024年04月19日 08時57分17秒
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