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カテゴリ:江戸後期
13、「おわりに」 秀吉の死後、関ヶ原の戦いにおいて、家政の子の蜂須賀至鎮が東軍に与し、領土を安堵され、子孫は徳島藩の外様大名として代々松平の名字を徳川将軍から授与され存続し、明治維新を迎えている。 ただし、8代蜂須賀宗鎮から2代は高松松平家(水戸徳川家の御連枝)からの養子、10代蜂須賀重喜は秋田佐竹家からの養子で、元々の蜂須賀氏の血筋ではなかった。 また、13代藩主蜂須賀斉裕の実父が11代将軍徳川家斉であり、最終的には徳川将軍の血筋となった。 後に侯爵に任ぜられ、紀州徳川家・水戸徳川家と並ぶ屈指の富豪華族として知られた。北海道で大規模な農場経営をおこなったが失敗し、ここから凋落が始まる。 大正から昭和期に18代当主となった蜂須賀正氏は世界的な鳥類学者として知られるが、一方でたびたび犯罪に絡んだために「華族の品位を落とす」とされ、1945年(昭和20年)7月に侯爵位を返上した。戦後は正氏の遺族の間で財産争いが起こり、そこに暴力団もからんだために過半の財産を消失し、蜂須賀氏は没落した。 江戸期に分家した「蜂須賀山城家」「蜂須賀隼人家」「蜂須賀駿河家」「蜂須賀靭負家」などの、藩の要職についた系統もある。 蜂須賀藩主は代々釣り好きで、専用の釣り場を維持し、案内人も数名召し抱え、四季の釣りを楽しんだと言われている。磯釣りのうきフカセ釣りで有名な阿波釣法の発祥とされている。 了 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年05月27日 08時05分52秒
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