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カテゴリ:中世
建仁2年(1202)に生まれる。元服時に母方の従兄にあたる北条泰時より偏諱を賜って泰綱と名乗る。 1238年、将軍・九条頼経に仕えて上洛し下野守に叙任された。泰綱が『吾妻鏡』に登場する1230年頃の官職の記述が従五位下相当の修理亮となっているから、下野守に任ぜられる前の1230年頃には既に従五位下の官位を余されており、その官位のまま下野守に任ぜられたものと推定される。 その後1241年に下野守を満了した折には従五位上に昇進したとされる。 1243年、幕府評定衆の一人に任じられた後は、没するまでその職に在り続け幕政で重きを成した。 1249年頃には幕府内職位として美濃の守護職も与えられている。一方、官位の方も1246年に正五位下に昇進したようであるが、その後については不詳である。 1260年11月1日、父・頼綱の後を追うように59歳にて京都で死去した。 歌人としても優れており、藤原定家は修理(泰綱)の和歌は「骨を得ている」と評価(『明月記』嘉禎元年5月1日条)し、宇都宮歌壇を盛り立てた。 玉葉和歌集や続拾遺和歌集には泰綱の作品が数多く修められている。 吾妻鏡では、下野守を満了した後の泰綱を「下野前司」と記している。 *「宇都宮 景綱」(うつのみや かげつな)は鎌倉時代中期の鎌倉幕府の御家人。宇都宮氏第7代当主。父は宇都宮泰綱。母は北条朝時の娘。 建長4年(1252)4月、宗尊親王の近習として仕える。正嘉元年(1257)には御格子番、弘長3年 (1263)には御鞠奉行に任じられるなど、宗尊親王から重用された。 その後も下野守に叙任され、引付衆や評定衆に任じられるなどして、幕政の中でも重きを成した。 弘安6年(1283)には御成敗式目に基づき宇都宮家式条(宇都宮家弘安式条)を制定した。 弘安8年(1285)11月、内管領平頼綱によって安達泰盛が滅ぼされた霜月騒動では、景綱は安達氏の縁戚(泰盛と義兄弟の関係)であった事から失脚するが、永仁元年(1293)に平禅門の乱で頼綱が滅ぼされると幕政に復帰した。 永仁6年(1298年)5月1日、64歳で死去。 歌人としても優れた才能を持っていたといわれている。 安達義景の娘を正室に迎えたが、諱(実名)の「景」の字はその義景から一字拝領したものと考えられている[1]。 *「宇都宮 貞綱」(うつのみや さだつな)は、鎌倉時代中・後期の武将。鎌倉幕府御家人宇都宮氏第8代当主。宇都宮景綱の子。母は安達義景の娘。興禅寺を開基したことで知られる。 北条氏得宗家(鎌倉幕府第9代執権)の北条貞時の偏諱を受けて貞綱と名乗る。 時宗の死後は北条貞時に仕えて嘉元3年(1305)、嘉元の乱では貞時の命を受けて北条宗方誅殺に協力した。 正和元年(1312)、亡母の13回忌に全国的にも珍しい巨大鉄製塔婆を奉納した(宇都宮市清巌寺蔵:国の重要文化財)と言われている。 正和5年(1316)7月25日、51歳にて死去した。法名は蓮昇、法号は興禅寺。 「宇都宮 氏綱」(うつのみや うじつな、嘉暦元年(1326)~ 建徳元年/応安3年(1370)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将。下野宇都宮氏第10代当主。下野、上野、越後3国の守護職を任された。父は宇都宮公綱。母は千葉宗胤の娘。妻は足利高経(斯波高経)の娘。長男(嫡子)に宇都宮基綱、次男に宇都宮氏広(うじひろ)がいる。 父が南朝側に仕えたのに対し、氏綱は北畠顕家が上洛途上で鎌倉を攻撃したとき、顕家から離反して足利尊氏の家臣として仕えた。 尊氏から偏諱(「氏」の字)の授与を受けて「氏綱」と名乗ったのもこの頃とされる。そして尊氏の下で武功を挙げたため、観応の擾乱で足利直義方についた上杉憲顕が剥奪された上野・越後両国の守護職を与えられ(1352)、鎌倉公方足利基氏の家臣として仕えた。 薩埵山体制の一翼を担うが、基氏の信任が厚かった上杉憲顕が赦免されると、憲顕が上野・越後守護職の返還を求め、氏綱がこれを拒むと基氏の怒りを買ってその追討を受け、守護職を剥奪された(1362年・武蔵国比企郡岩殿山合戦)。 基氏死後の1368年、これに不満を覚えていた氏綱は武蔵国の武蔵平一揆に乗じて反乱を起こしたが、今度は基氏の子・足利氏満の追討を受けて降伏した。一命こそ助けられたが、失意のうちに1370年7月5日に紀州に出陣中に45歳で病死した。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2024年07月02日 06時29分22秒
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