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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年10月18日
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カテゴリ:戦国



5「滝川一益による関東支配」


甲州征伐終了後の3月23日、織田信長は重臣・滝川一益に上野一国と信濃の小県郡・佐久郡を与え、織田家に従った関東諸侯をその与力とした。一益は箕輪城、次いで厩橋城を本拠とし、北毛の沼田城に滝川益重、西毛の松井田城に津田秀政、佐久郡の小諸城に道家正栄を置いた。


    


   〇「滝川 益重」(たきがわ ますしげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。滝川一益の甥。諱は益氏(ますうじ)とも詮益(のぶます)とも伝わるが、これらを別人とする説もある。通称は儀太夫。


   織田信長の家臣・滝川一益の甥といわれる。前歴などは不明だが、叔父一益の家臣となった。


   傾き者として知られる前田利益は「滝川儀太夫の子(または弟)」とされるので、この滝川儀太夫が益重をさすとする説があるが定かではない。また、楠木氏最後の当主楠木正盛は「瀧川義太夫」の娘を室としている(『勢州軍記』)が、この義太夫が益重かどうかも不明である。


   天正10年(1582年)、甲州征伐に従軍。田野で武田勝頼を包囲して自害に至らしめた。3月、滝川一益が信濃国のうち二郡と上野一国を与えられると、益重も上野に領地を貰った。


   滝川一益が上野の厩橋城を本拠地として入った際に、益重は城代として真田昌幸が明け渡した沼田城に入城した。同年5月23日、益重は滝川勢を率いて三国峠を越えようとしたが、清水城主長尾伊賀守と樺沢城主栗林政頼に破れ、同25日には猿ヶ京城に夜襲をうけたが、これは撃退したと伝わる。


   同年6月2日、本能寺の変で織田信長が横死する。これを知った元沼田城代の藤田信吉は長尾伊賀守に使いを出して上杉景勝に通じて反乱を起こし、5千の兵を率いて沼田城を攻め水曲輪の一つを奪ったが、同月13日、益重は滝川一益の援軍を得てこれを撃退した。同月18-19日、北条氏直との神流川の戦いに従軍するが、敗れた一益が伊勢長島城へ撤退すると、益重もこれに従った。


   天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いにおいて滝川一益は柴田氏に与し、関盛信の留守に乗じ亀山城を奪い、峯城にいた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)派の岡本宗憲を駆逐すると、亀山城に佐治新介(これを滝川益氏とする説がある)、峯城に益重が入れられた。


   2月、両城は羽柴軍の猛攻を受け、兵糧攻めにより4月17日に峯城は開城するが、その後の投降した益重を秀吉は召し出して奮戦を称え、領地を与えた。戦後は豊臣氏に仕えた。


   天正12年(1584年)の小牧の戦いに兵100人を率いて従軍。天正14年(1586年)の朝日姫の輿入れに供奉して浜松に入った。天正15年(1587年)の九州の役では兵350人を率いて従軍した。


   茶の湯を嗜み、津田宗及の茶会にしばしば足を運び、津田盛月、松下之綱らとも親交があった。没年不詳。


   「津田 秀政」(つだ ひでまさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。江戸幕府旗本寄合。津田秀重の子。幼名は愛増。通称は小平次。諱は正秀とも。号は興庵。


   出自と関東入国


   織田氏庶流の津田氏の生まれであり、父の秀重と共に織田信長に仕え、岳父の滝川一益の与力として旗下に加わる。天正2年(1574年)3月、信長の嫡男・信忠の命より、祖父・織田秀敏の跡を継いだ。


   天正10年(1582年)2月の甲州征伐にも従軍し、同年3月23日の一益の上野国拝領に伴い松井田城を任され、後閑氏の後閑城を攻め落としている。しかし、直後に織田信長が本能寺の変で戦死し、織田政権が瓦解した。信濃および上野を支配していた滝川一益とその寄騎の政治基盤も急速に揺るがされることとなった。同年6月18日、19日の神流川の戦いに一益方として参加。敗戦後に関東諸将と別離の宴を開いたのち、秀政や滝川益重や道家正栄ら滝川の諸兵は上野・信濃を放棄し、本拠地である伊勢及び尾張に帰還した。


   三度の仕官


   天正11年(1583年)、信長の次男織田信雄・羽柴秀吉と信長の三男織田信孝・柴田勝家が織田政権の主導権を巡って争った。一益はこれに信孝・柴田方に与力して参加した。正月、一益は織田信孝、柴田勝家に与して羽柴秀吉の侵攻を受けた。一益配下の伊勢の諸将は秀吉方の大軍7万近くを相手に3月まで粘り、柴田勝家の近江南進により秀吉本隊が移動した後も織田信雄と蒲生氏郷の2万近くの兵を長島城に釘付けにしたが、柴田が賤ヶ岳の戦いにより破れ、4月23日に北ノ庄において自害、4月29日には信孝も岐阜城を落とされ自害してしまった。残された一益軍は長島城で籠城し続け意地を見せたが、7月に降伏。これにより一益は所領を全て没収され、出家した。一益の娘婿であった秀政も浪人した。その後、一益の旧領伊勢を併合した信雄に仕え、伊勢三重郡高角郷に800貫文を知行した[3]。その後、天正18年(1590年)の小田原征伐ののち信雄が所領没収されると、豊臣秀吉に馬廻として仕えた。文禄元年(1592年)7月、肥前名護屋城の本丸番衆に名を連ねている。


   慶長3年(1598年)の秀吉死後は徳川家康に仕え、慶長5年(1600年)、家康に従い会津征伐、関ヶ原の戦いで功を挙げ、3,000石を与えられて計4,010石余の大身旗本となった。この時、名物唐物茶入の「安国寺肩衝(あんこくじかたつき)」を拝領したが、後に細川忠興に持ち去られた。


   妙心寺と隠棲


   慶長11年(1606年)、嗣養子・津田正重が死去すると、滝川一益がその子・九天宗瑞を開祖として起こした「暘谷庵」(京都妙心寺)を再興し「暘谷院」として、津田家の菩提寺とした。慶長19年(1614年)大坂の陣に従軍している。元和2年(1616年)に剃髪、京都に隱棲し興庵と号した。寛永12年(1635年)に死去。享年90。法名は長興院殿光岩道景大居士。


   この時、前述の暘谷院は、津田秀政の号名にちなんで院号を「長興院」と改めている。長興院は、後に九天宗瑞と慈徳院が織田信忠の菩提所として開創した「大雲院」を併合した。


    


   〇「道家正栄」(どうけ まさひで、生没年未詳)は戦国時代の武将。道家氏。通称は、彦八郎。滝川一益の甥。


   道家氏は、京都光明峯寺の尾張、美濃、三河の荘官を勤めたが、鎌倉時代から戦国時代にかけて各地の荘園は侵食されて在地勢力の傘下に入った。


   道家氏の一人である道家正栄は叔父の滝川一益に仕え、天正10年(1582年)3月、滝川一益が東信の佐久郡・小県郡と上野一国を与えられるとこれに従い、佐久郡の小諸2万石を託され小諸城の城代となった 


   同年6月2日の本能寺の変で織田信長が横死した。この知らせは6日に道家正栄の小諸城に伝わり、7日に厩橋城の滝川一益に伝えられた。旧武田領では武田家旧臣による一揆が起こり18日に北信の森長可が海津城を捨て美濃へ去り[3]、甲斐の河尻秀隆は同日に武田遺臣により殺害された。


   一方、相模の北条氏直は関東の大軍を動かし6月16日に上州倉賀野に攻め入った。滝川一益は迎撃するも19日の神流川の戦いで敗北し、上野を放棄して21日に2千余の兵を率いて道家正栄の守る小諸城に入った。滝川一益は、ここで佐久郡・小県郡の国衆の人質を木曾義昌に引き渡すことにより木曽谷の通過の容認を得て、27日道家正栄と共に小諸城を立った。この時、滝川一益は、小諸城を依田信蕃に引き渡すよう、道家正栄に命じたという。翌28日には下諏訪に着き、ここで木曾義昌の通行認可の返書を受け取り、7月1日に伊勢長島に帰還した。


   道家正栄の子息・長左衛門は親族の中村一忠に出仕した。


 


残る武田領は、参月29日、河尻秀隆が甲斐一国(穴山領除く)と諏訪郡、森長可が信濃4郡、毛利長秀が伊奈郡を与えられ、木曾義昌が木曽谷と安曇郡、筑摩郡を安堵された。従って、北条家の領土の加増は無かった。


    


   〇「河尻 秀隆」(かわじり ひでたか)は、戦国時代の武将。織田氏の家臣。黒母衣衆筆頭で、のちに織田信忠の補佐役及び美濃岩村城主を務め、甲斐国主にまで昇った。馬印は金のつり笠。秀隆および河尻氏に関係する文書は少なく、事跡の多くは『信長公記』や『甲陽軍鑑』、徳川氏関係の記録に記されている。


   織田信秀への出仕


   尾張国岩崎村の出身とされる。秀隆の河尻氏と醍醐源氏の一派である肥後河尻氏との関係は不明である。『信長公記』には織田大和守家(清洲織田氏)の家臣に同じ河尻姓の人物(河尻与一)が見られ、『美濃国諸家系譜』には秀隆が信長の命によって河尻与一郎重俊の跡を継いだとの記述がある。このため少なくとも清洲織田氏の老臣である河尻与一と同族である可能性は高いと見られている。秀隆は早い時期から清洲三奉行・弾正忠家の織田信秀に仕えた。実名秀隆の「秀」の一字は信秀よりの偏諱と考えられている。


   天文11年(1542年)8月、弱冠16歳で信秀に従って第1次小豆坂の戦いに参加した。 この時、今川氏の先陣を務めた足軽大将・由原と一騎打ちとなり、組討の末に討ち取るという武功を挙げた。


河尻秀隆の馬印(右)


   黒母衣衆の筆頭


   信秀没後は織田信長にも仕え、黒母衣衆の筆頭を務める。永禄元年(1558年)、信長が弟の織田信勝(信行)を謀殺するために清洲城へ呼び寄せたときには、青貝某とともに信勝の殺害を実行した。


   永禄3年(1560年)5月に桶狭間の戦いに参加する。急遽出陣した信長に織田造酒丞・岩室重休・長谷川橋介・山口飛騨守・加藤弥三郎等と共に真っ先に従った。なお通説では毛利良勝が今川義元を討ち取ったとされるが、討手を秀隆とする異説も存在する。


   永禄8年(1565年)夏期、丹羽長秀と共に美濃猿啄城攻めを命じられる。城主・多治見修理亮は地の利を生かしてよく城を守ったが、長秀が隣山を占拠して水源を絶ち、秀隆が猛攻を仕掛けて落城させた。


   同年9月28日の堂洞城攻めでは激戦の中、本丸に一番乗りするという武功を挙げ、岸信周を自害に追い込んでいる。


   戦後、美濃攻めでの一連の功により猿啄城を与えられ、城名を「勝山城」と改称する。勝山入城後は、城下の坂祝町・長蔵寺を河尻氏の菩提寺と定めた。また戦火で全焼した大泉寺の復興も支援したとされる。


   永禄12年(1569年)、坂井政尚と共に今井宗久に堺北庄の証文を引き渡すように申し伝える使者として派遣されている。


   同年8月、伊勢北畠氏の大河内城攻めに参加する。この時は「尺限廻番衆」として菅屋長頼、塙直政、中川重政、前田利家等と共に張り巡らされた柵内の巡回を担当した。


   同年9月6日付けの今井宗久から織田家諸将(佐久間信盛、木下秀吉、柴田勝家、坂井政尚、河尻秀隆、金森長近、中川重政、津田一安、丹羽長秀、武井夕庵)へ向けた陣中見舞いの書状案にその名がみえている。


   元亀元年(1570年)2月19日、堺の今井宗久から安宅神太郎が淡路で三好三人衆方を破ったことについて急報を受けている。書状案では金森長近、武井夕庵、坂井好斎、菅屋長頼と並べて名が記されており、当時信長の代表的な側近と認識されていたことがわかる。


   同年3月6日、中山孝親と甘露寺経元が信長を訪問したが不在のため秀隆が応対し、礼として30疋を受け取っている。


   同年6月28日、姉川の戦いに従軍し、本戦後の磯野員昌が籠城する佐和山城攻めでは付城の一つである西彦根山に布陣した。


   同年9月の志賀の陣では佐久間信盛、明智光秀、村井貞勝、佐々成政等と共に穴太の砦に入り、比叡山延暦寺包囲の一角を担った。


   元亀2年(1571年)2月、磯野員昌が退去した後の佐和山城に入城し、以後は丹羽長秀と共に城将として活動する。


   同年9月、信長は比叡山焼き討ちに際して比叡山傘下の天台寺院をも焼き払うことを命じ、秀隆は丹羽長秀と共に湖東三山の西明寺に焼き討ちを行った。


   21日には前年の野田城・福島城の戦いで本願寺方に内通した高宮右京亮の一族郎党を佐和山城に召喚し誅殺した。高宮も先手を打って切って出たが別段の支障なく成敗されたという。その直後には丹羽長秀・秀隆の連名で多賀社に条規を下し、安全を保障して混乱を防ぐとともに高宮が預けていた物品を没収している。さらに高宮寺に竹木の保護を許可しており、この地域に一定の権益を与えられていたようである。


   元亀3年(1572年)10月、武田信玄の敵対を知った信長の命を受け、織田信広と共に岩村城を占拠して信長の四男・坊丸(織田信房)を遠山家の養子に据えた。11月には岐阜城に詰めていた佐久間信盛が徳川家康の援軍として浜松へ派遣され、手薄になった岐阜城の防衛強化のために信広、秀隆は帰還する。その直後、信長の強引な手法に反感を持っていた遠山家臣らは岩村城に軍勢を引き入れ武田方に寝返った(元亀3年、岩村城の戦い)。翌年3月には秋山虎繁が入城しておつやの方と祝言を上げ、坊丸は人質として甲斐に送られている。


   天正元年(1573年)11月、佐久間信盛等と共に、足利義昭に与した三好義継を若江城に攻めて自害に追い込んだ(若江城の戦い)。


   同年12月2日昼、塙直政、梁田政綱、今井宗久と共に堺の豪商・津田宗及邸を訪問し、茶と料理を振舞われている。


   信忠軍団の副将


   天正2年(1574年)、前年に元服を終えたばかりの信長の嫡男・織田信忠付きの武将となり、その補佐役を任せられる。


   同年2月、武田勝頼の軍勢により明知城が落城し、武田氏の勢力が岐阜を脅かす事態となった。この時、武田氏の抑えとして最前線である神箆城(または肥田城)に河尻秀隆が、小里城に池田恒興がそれぞれ守備を任せられた(天正2年、岩村城の戦い)。


   信長公記によれば同年6月の伊勢長島一向一揆攻めにも参加したとされる。しかし信長は同時期に秀隆に書状を送って長島攻めの状況について説明しており、実際は引き続き神箆城の守備についていたと考えられている。さらに同書状では秀隆に対して、池田恒興が担当した小里城についても警備を厳重にするようにとの指令がなされている。


   天正3年(1575年)2月26日、小笠原貞慶に書状を送り今秋の信濃出兵予定を知らせるとともに、武田家臣への調略を促している。信濃への出兵を約束していた上杉謙信が動かなかったこともあり、織田氏の信濃出兵も行われなかったが、6月には飯田城の坂西氏が謀反を起こし、矢沢又兵衛尉、佐野善右衛門尉、佐々木新左衛門尉等の伊那衆が織田方に内通して在所を退散しており、調略は一定の成果を上げている。


   同年5月21日の長篠の戦いには信忠を補佐して参陣し、信忠に代わって信忠軍の指揮を執った。合戦後は信忠と共に岩村城に攻め寄せ包囲した。


   同年11月、夜襲を仕掛けてきた武田氏の援軍を打ち破り大将格21人、合計1,100人以上を討ち取る大打撃を与え、籠城衆を降伏に追い込んでいる。その後、信長の命令に従って捕らえた秋山虎繁、座光寺為清、大島杢之助、おつやの方を岐阜城に送り、城兵を処刑した。この時、信忠軍団随一の功労者として岩村城5万石を与えられる(天正3年、岩村城の戦い)。これらの経緯から信忠家臣団の目付的立場にあったと推測されている。


   この年、丹羽長秀、簗田広正、松井友閑、武井夕庵、明智光秀が賜姓任官されたが、『当代記』によればさらに塙直政が原田備中守、羽柴秀吉が筑前守、秀隆が肥前守を号したという。しかし文書での使用が一件しか確認できず、後に肥前守に任官した息子の秀長と混同したものともされる。


   岩村入城後は新たな城下町形成のため岩村川から水を引いて「天正疎水」と呼ばれる4本の用水路を設置した。この用水は400年以上たった現在でも城下の家々の下を流れ生活用水として大きな役割を果たしており、秀隆によって岩村町の基礎が築かれたとされる。


   その後は岩村城主として長く東濃に留まり、引き続き武田氏の抑えという重責を担うことになる。そのため、その後の4年間は信長の主戦場となった毛利氏や大坂本願寺などの畿内以西の戦線には殆どかかわった形跡がみられない。


   天正6年(1578年)9月30日に信長は重臣らと堺に赴き、第二次木津川口の戦いで毛利水軍を破った大船を見物し、その帰りに津田宗及邸での茶会に参加した。秀隆は細川信良、津田信澄、細川藤孝、佐久間信栄、筒井順慶、荒木村次、万見重元、堀秀政、矢部家定、菅屋長頼、長谷川秀一、大津長昌、三好康長、若江三人衆と御供衆として供奉し、菓子や酒の接待を受けている。


   天正7年(1579年)には信忠に従って荒木村重の摂津有岡城攻めに参加し、その攻略に武功を立てた。


   天正8年(1580年)、信長より安土城下の下豊浦に屋敷を与えられる。この地域には通称地名となって河尻、高山、金森等の信長諸将の名字が伝存している。


   天正10年(1582年)2月からの甲州征伐に従軍。2月6日、国境を守る滝沢の城番下条信氏の家老衆を寝返らせ、岩村口から武田領に侵攻した。その後は信忠率いる本隊と共に進軍し、毛利長秀と共に一時的に大島城の守備に就く。2月26日、高遠城の動揺を誘うために調略を用いて城下町を焼き払い、信長から称賛される。3月2日、唯一激しい抵抗のあった高遠城攻めでは主力として戦い、わずか一日で陥落させた[5]。また血気にはやり命令違反を繰り返す団忠正、森長可の行動を統制する等、軍監として信忠家臣団を統率している。3月11日、滝川一益、秀隆の軍勢が田野に逃れた武田勝頼・信勝父子を追跡して討ち取った。


   3月29日、信長は論功行賞にともなう知行割を発表し、秀隆は穴山信君領の甲斐河内領を除く甲斐22万石と信濃諏訪郡を与えられた。なお、穴山信君に安堵された本領と秀隆の所領の明確な境界は未確定であり、信長は双方の重臣の協議の上で最終的な解決を図るように指示している。


   『甲乱記』によると、秀隆は恵林寺の快川紹喜に使者を送り、六角賢永や大和淡路守を匿ったことなどに対して3か条の詰問を行ったという。快川紹喜は六角らを庇って虚偽の返答をしたため、4月3日、織田信忠の派遣した津田元嘉・長谷川与次・関成重・赤座永兼によって恵林寺は焼き討ちにされた。


   その後、かつて徳川家康から離反した山家三方衆の菅沼定忠、菅沼満直・新兵衛尉父子が秀隆を頼って降伏してその陣中にいたが、それを知った家康が信長に報告し、家康家臣の牧野康成によって誅殺されたという。


   甲斐統治において、武田氏統治時代と同じ甲府の躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市古府中町)を居城としたとされるが、『甲斐国志』『武徳編年集成』では甲府近郊の岩窪館(甲府市岩窪町)を本拠にしたとする。


   秀隆の入府には明知遠山氏の遠山利景・一行・方景が従っており、その後は共に甲府の守備に就いていることから、利景らは秀隆の与力にあたると推測される。






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最終更新日  2024年10月18日 07時18分27秒
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