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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年10月18日
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カテゴリ:戦国



 
小牧・長久手の戦い


   天正12年(1584年)、羽柴秀吉と織田信雄との間で軍事的な緊張が高まり戦が不可避となった際には、岳父である池田恒興と共に秀吉方に付いた。出陣に当たり、まずは金山より南への船を通行止めとして尾張への流通を断ち、関成政や遠藤慶隆に参陣を呼びかけた。 関・遠藤勢と合流した長可は尾張国へと侵攻するが既に池田軍は犬山城を攻略しており、長可は功を挙げるべく戦略的に意義のある小牧山の占拠を狙い軍を動かす。3月16日に尾藤知宣に出陣を願い出て許可を得ると同日夕方出陣し夜半には小牧山城を指呼の間に望む羽黒(犬山市)に陣を張った。しかしながら小牧山は15日に徳川軍の手に落ちており、長可出撃を各地に配した忍びの連絡により察知した家康は直ちに酒井忠次・榊原康政・大須賀康高ら5,000人の兵を羽黒へ向けて派兵した。そして、17日早朝に森軍を捕捉した徳川軍は羽黒の長可へと奇襲をかけ戦端を開く(羽黒の戦い


   奇襲を受けた当初は森軍も混乱したものの、長可はこの時点では尾藤とともに立て直し戦形を維持したが、迂回していた酒井忠次が退路を塞ぐように後方に現れると、それに対処すべく一部の兵を後退、反転させて迎撃を試みた。しかしながらこれを一部の兵が敗走と勘違いして混乱し始め、その隙を徳川軍に攻められ森軍はあえなく崩れ、隊列を外れた兵は徳川軍に次々と討たれた。もはや戦形の維持が不可能になった上に敵に包囲された長可は指揮の効く兵だけで強引に北側の包囲の一角を破り撤退に成功したが、退路の確保や追撃を振り切るための退き戦で野呂宗長親子など300人余りの兵を失う手痛い敗戦を喫した。


   後に膠着状態の戦況を打破すべく羽柴秀次を総大将とした三河国中入り部隊に第2陣の総大将として参加。この戦に際して長可は鎧の上に白装束を羽織った姿で出馬し不退転の覚悟で望んだ。徳川家康の本拠岡崎城を攻略するべく出陣し、道中で撹乱の為に別働隊を派遣して一色城や長湫城に放火して回った。その後、岐阜根より南下して岩崎城の戦いで池田軍に横合いから加勢し丹羽氏重を討つと、手薄な北西部の破所から岩崎城に乱入し、城内を守る加藤景常も討ち取った。


   しかしながら中入り部隊を叩くべく家康も動いており、既に総大将である秀次も徳川軍別働隊によって敗走させられ、その別働隊は第3陣の堀秀政らが破ったものの、その間に家康の本隊が2陣と3陣の間に割り込むように布陣しており池田隊と森隊は先行したまま取り残された形となっていた。もはや決戦は不可避となり長可は池田隊と合流して徳川軍との決戦に及び、井伊直政の軍と激突して奮戦するも水野勝成の家臣・水野太郎作清久配下の鉄砲足軽・杉山孫六の狙撃で眉間を撃ち抜かれ即死した。そこに現在武蔵塚が建てられた。享年27。


   死後


   その後、死体を担ぎ上げて撤退しようとする森軍の兵士に大久保忠世配下の本多八蔵が追いすがり森軍の兵を散らすがこの時、急時のため徳川軍には「首取るに及ばず」という指令が出ており、八蔵は葉武者の如く突出してきた長可を大将首とは思わずに鼻を削ぐと脇差を奪い取りその場を後にしてしまう。更にその後に別の武者がその死体に駆け寄り、首を取ると旗印を外して捨て、長可の羽織っていた白装束を脱がせそれで首を包むと槍の先に付けて馬に乗り、武功を大声で誇りながらその場を立ち去ったが、実はこの武士は徳川の兵では無く森家の田中某という小姓であったという。この為、長可の首は徳川軍には渡らず、金山に持ち帰られた。


   戦後、遺言状が各務元正、林通安、林為忠ら3人の家老によって秀吉の元に届けられた。遺言には名器を秀吉に譲る旨などが書かれていたが、「仙千代(後の森忠政)は秀吉様のお側で奉公すべき」や「金山は誰か信頼できる武将に任せるように」など裁量に困る意見も並んだが結局の所、秀吉も自分に味方した武将の領地を没収する訳にはいかず遺言のこの一節だけは無視して、仙千代を跡継ぎに指名し森家も金山にそのままとどめ置かれた。


   人柄


   父の可成と同様に槍術に優れ、その秀でた武勇から、「鬼武蔵」と称された。筋骨たくましい偉丈夫として戦場での勇ましさを伝える逸話も多い。


   非常に気性の激しい人物で、他の織田家臣団の奉公人を些細なことで怒りに任せて槍で突き殺したり、同僚に暴言を吐くなどして諍いを起こすことも少なくなかった。


   初出仕の時期には、既に可成の後継扱いであったため小姓として仕えた期間は無い。しかしながら弟の森成利(蘭丸)同様に信長の寵愛を受けており、甲州征伐後の長可の所領の石高は織田家臣の20代の武将の中では最も高く、譜代の重臣と比べても遜色ない物であった。


   戦でも度々命令違反や軍規違反を犯し、それについての書状もいくらか残されているが、信長から下される処分は口頭や書状での注意に留まり蟄居などの重い処分は一度も受けておらず、信長の重度の寵愛ぶりが窺える。


   書を好み、能筆であったという。戦場にも常に矢立と紙を携帯しており、何か報告事がある時はそれらを取り出して自ら筆を取った。


   茶道を嗜んでおり、津田宗及主催の茶会などにも招かれている。また、名物の収集も趣味であり、特に東山御物の「沢姫の茶壷」は秀吉から金2枚を借金してまで手に入れたという。なお、天正12年3月26日朝、妻である池田氏に宛てた遺言に、沢姫の壺、台天目は秀吉に進上、悪しき茶の湯道具は刀や脇差とともに弟の千丸に与えると後事を託しており、名物茶器の重さが痛感されるとともに[14]、長可の茶の湯への執心と名物の資産価値の大きさをうかがうことができる。


   上記の遺言は尾藤知宣宛とされてきたが、これは明かな誤りで、妻の池田氏に宛てたものである。本来の宛所の位置に「尾藤甚右衛門、この由御申し候べく候」云々とあり、返し書(追而書)が本文の後にくる変則的な書式のため従来の研究者は幻惑されたといえる。尾藤知宣を介しつつ、後事を妻に託しており、それも「ー候」とか「申候べく候」というようにきわめて丁重な言いまわしで、このことは森夫婦の間柄が役割分担の明確な対等の関係にあったことを物語っている。


   武辺一辺倒に思われがちだが政務への参加も意欲的であり、上記のように金山の町の発展の為に商業を重視した政策をとった。また、信濃時代もなかば強引な手段ではあるが政情不安の信濃を抑え付け、入領から1ヶ月あまりで越後への遠征を実現している。


   逸話


   百段という甲斐黒の名馬を所有していたが、名の由来については「居城・金山城の石段100段を駆け上がれるほどの健脚を持っていた」という伝と「100段(反)を全力疾走できる」という伝とがあるがあまりよく分かっていない。


   「人間無骨」の銘が彫られた二代目和泉守兼定(之定)作の大身の十文字槍を愛用していた。これは、この槍の前では「人間の骨など無いも同然」という鋭い突き味を持っていた事から名付けられたとされ、事実、長可は初陣でこの槍を振るい、27にも及ぶ首級を挙げたという。


   武蔵守の由来については次のような伝説がある。信長が京都に館を構えた頃、近江の瀬田に関所を設けて諸国大名の氏名を記し通行させた。長可が関所に差し掛かると関守に下馬して家名を名乗るように言われたが、長可は急いでいるとして下馬せずに名乗って通ろうとした。立ちふさがる関守を「信長公の御前ならともかく、この勝蔵に下馬を強いるとは何事」と斬り捨て、止め立てすれば町を焼き払うと叫んだので、木戸は開かれた。長可がこの一件を話し裁定を仰ぐと、信長は笑って、昔五条橋で人を討った武蔵坊弁慶がいたが、長可も瀬田の橋で人を討ったとして、今後は武蔵守と改めよと言ったという。


   高遠城攻めの時は激戦で長可の鎧の下半身は高遠城兵の返り血で真っ赤に染まっており、その姿を見た織田信忠は思わず手負いかどうか尋ねたという。


   米田城から加治田城に肥田玄蕃が逃げのびた事について、長可は「加茂山(米田城)には地の地の利が無い。加治田は利のあるところである。加治田にかたまり、わが勢を引き受けようとする場所に逃れたのは、なかなか天晴な大将である」と述べたと伝わる。


   小牧・長久手の戦いに出陣する前に、「娘のおこうは侍ではなく、京都の町人で医師のような人物に嫁がせるように」という遺言を妻の池田氏に対して残している。


   森長可の嫡男である森玄蕃を、根本城城主若尾元昌が保護したとされ、玄蕃は元和五年(1619年)に、42歳で亡くなっている。


   〇「木曾 義昌」(きそ よしまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。信濃国木曾谷の領主木曾氏の第19代当主。幼名は宗太郎。左馬頭、伊予守。木曾義康の長子。弟に上松義豊。正室は武田信玄の娘・真竜院(真理姫)。子に千太郎、義利、義春、義通、娘(毛利高政正室)などがいる。


   木曾氏は断絶した源義仲の嫡流に連なる名族を自称しているが、そのような内容の系図が南北朝時代に作成されたのではないかと指摘されている。(ただし直系の先祖は藤原北家秀郷流を称している)


   出自


   天文9年(1540年)、 木曾義康の嫡子として誕生した。当初は小笠原氏や村上氏らと共に甲斐の武田信玄の信濃侵攻に対抗したが、弘治元年(1555年)に更なる侵攻を受けて武田家に降伏した。木曾氏が隣接する美濃・飛騨との国境地帯を押さえていたため、信玄は、義昌に三女の真理姫を娶らせ、武田家の親族衆として木曽谷を安堵した。なお、この真理姫の輿入れについては、同時代の確実な史料で確認することはできない[3]。しかし実際には主だった家臣や親族を甲府に人質として置き、木曽の治世はすべて武田家の監視の元で行われたのであって、甲斐国の属国化を余儀なくされた。これにより木曾谷は、武田家の美濃や飛騨への侵攻における最前線基地となった。永禄3年(1560年)、御嶽山に登拝して崇敬したことが知られている。天正元年(1573年)8月、義昌が美濃国恵那郡の河折籠屋を攻め落とし、さらに苗木遠山氏の苗木城を攻めた。天正2年(1574年)には武田信玄の命により美濃国恵那郡の阿寺城を攻め、城主の遠山友重は討死を遂げた。


   信玄の死後、高天神城の戦いに敗北して凋落を見せはじめた武田家の行く末に不安を抱くと共に、義兄の武田勝頼による新府城造営の賦役増大と重税に不満を募らせた義昌は、天正9年(1581年)8月26日に織田信忠から武田攻めの準備に関する書を送られている。 天正10年(1582年)1月、織田氏の調略に応じて実弟上松義豊を人質に出し、武田勝頼から離反した[6]。これを契機に信長の甲州征伐のきっかけを作ることになった。勝頼は武田信豊を将とする討伐軍を木曽谷に向けて派遣するが、義昌は地の利を得た戦術と織田信忠の援軍を得て鳥居峠でこれを撃退する。しかし、武田軍が新府城を出発する前の2月2日、人質として送られていた70歳の母、側室、13歳の嫡男・千太郎、17歳の長女・岩姫が新府城で処刑された。


   武田家滅亡後


   武田家滅亡後は、信長に出仕した。信長は義昌に梨子地の太刀と黄金100枚を与えた。さらに信濃で二郡を与えるとの内命を伝えたとされ、深志城(後の松本城)に城代を置いて木曽の他・松本・安曇地方経営の拠点とした。しかし僅か3ヶ月後に本能寺の変が勃発すると、信濃国内も新たな支配権を巡って混乱し、義昌も北信濃の所領を放棄して美濃へと逃げる森長可の命を狙ったが、企みに気付いた長可に木曽福島城に押し入られ、逆に子の岩松丸(後の木曾義利)の身柄を拘束されてしまう。


   岩松丸を人質に取られたことで義昌はやむなく遠山友忠など長可をよく思っていなかった近隣の諸将にも森軍に手出しをしないように依頼して回り、むしろ長可の撤退を助ける役目を負わされた。また、変後の信濃の混乱を好機と見た深志の旧領主・小笠原氏の旧臣が越後国の上杉景勝の後援を受けて前信濃守護・小笠原長時の弟である洞雪斎を擁立し、木曾方は深志城を奪われ、本領木曽谷へ撤退するに至った。 武田家の遺領を巡り上杉景勝と徳川家康・北条氏直の三者が争うと(天正壬午の乱)、初めは氏直に従っていたが、8月の甲州黒駒合戦での後北条軍の敗北と、旧主の織田信孝の意向を仰ぎ、9月には家康に寝返り、他の信濃国衆から集めた人質を引き渡し、その代わりに再度安曇・筑摩両郡および木曽谷の安堵を受ける約定を得た。


   ところが、天正12年(1584年)、家康と羽柴秀吉の対立による小牧・長久手の戦いに呼応して、義昌は盟約を反故にし、三男・義春を人質として今度は秀吉に恭順するに至った。家康が小笠原長時の子・貞慶の深志城復帰を認めたからとも言われている。このため家康は義昌を攻め妻籠城にて戦ったが、義昌が勝利している。天正14年、秀吉と家康の講和により、木曾氏を含めた信濃の諸将は家康の傘下に入り、地方的な部将としての木曾氏の独立性は失われた。秀吉の北条攻めには病床におり出陣はできなかった。


   晩年


   天正18年(1590年)、家康の関東移封に伴い、家康から下総国阿知戸(現在の千葉県旭市網戸)1万石が与えられて木曽谷を退く。領主にとって木曾の土地資源は、今日でも全体の九割五分を占める山林であることから、木曾の山林に着目した秀吉から木曾を没収され阿知戸を与えられたとする説もある。同年12月、下総国三川村に到着、東園寺に居住し、芦戸地域を整備し、天正19年(1591年)3月、芦戸城(阿知戸)に入る。城の南には市場を開けるように町作りが計画された。天正18年12月12日、千村良重に対して、十日市・へびぞね700石の知行と箕広66貫文の代官職を宛行う。没年は、文禄4年(1595年)2月13日、同年3月17日、慶長元年(1596年)7月13日の三説がある。家督は義利が継承した。


   法名は東禅寺殿玉山徹公大居士。墓所は千葉県旭市網戸の東漸寺(旧名は東禅寺)にあり、遺体は城の西方椿海に水葬され、干潟になってから改めて墳墓をつくった。寛文11年(1671年)、椿海は干拓され干潟8万石と称される田園地となった。現在、その一角に木曾義昌公史跡公園が造られ、義昌の銅像がある。



   子孫


   義昌の死後、義利は叔父・上松義豊を殺害するなどの乱暴な振る舞いにより、慶長5年(1600年)に改易に処されたとされる。義利は浪人し、その後蒲生氏を頼り、蒲生氏の伊予松山転封に随行、そのまま同地に居住したとされるが、阿知戸を退去した後の義利に関しては、確たる史料に基づく消息は残っていない。改易に際しても、「下総国に流罪」とする説と単に「追放」とする説がある。また、寛永16年(1629年)に伊予松山で没したとする説もあるが、確証は無い。その子の玄蕃義辰(よしとき)は久松松平家に仕えたが後に故あって浪人し、その子らは最終的には親族であった千村氏・山村氏を頼り後ろ盾に頼むことにより尾張藩ほかに召し抱えられる。


   義昌には他に三男・義春(義成)と四男・義一(義通)がおり、義春は大坂の陣における豊臣秀頼の浪人募集に応じ大坂城に入って戦死した。義一は母の真竜院と共に木曽谷で隠遁しとされるが、その後や子孫に関しては伝わっていない。


   大名家としての木曽家は消滅したが、その名跡と領地(総禄高16,200石にのぼる)は家臣(親族)であった千村氏・山村氏などの木曾衆が継承した。甥・義重の子上松義次は上杉定勝の近習となり、米沢藩に仕えた。


   一益は新領地統治にあたり、関東の諸将に対して本領を安堵することを申し渡した為、近隣の諸将は人質を伴い次々と出仕した。この時、佐野氏の天徳寺宝衍と、倉賀野城主の倉賀野秀景は側近とされ、


   〇「金井 秀景」(かない ひでかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。上野国西部の武士団、倉賀野衆の一人である。金井淡路守とも称する。後に倉賀野城主となり、倉賀野淡路守秀景と名乗った。



    


   金井氏は新田氏一族に属する岩松氏の支流で、岩松時兼の三男・金井長義を祖とする。当初、倉賀野氏の当主・倉賀野行政麾下の倉賀野十六騎の一人として関東管領・上杉憲政に従った。


   河越城の戦い


   天文15年(1546年)、行政が河越城の戦いで討死すると、他の十六騎と共に病弱であった行政の嫡男・倉賀野為広をよく助け、城を守る。


   武田信玄の西上野侵攻


   詳細は「西上野侵攻」を参照


   天文16年(1547年)の小田井原の戦いでは、籤引きで先鋒に選ばれた為広の名代として上杉氏勢を率い、武田晴信と戦うが、大敗を喫した。その後、為広が死去。倉賀野尚行が跡を継いだ永禄2年(1559年)頃に、金井秀景は一転して武田氏方になり、武田信玄に仕える。


   永禄8年(1565年)、武田信玄により倉賀野城が落城。孤立した箕輪城も永禄9年(1566年)落城、箕輪城主・長野業盛は自刃し、倉賀野尚行が上杉謙信の許に逃亡した。


   元亀元年(1570年)、金井秀景が倉賀野城主となり倉賀野氏に改姓し、倉賀野秀景となる。


   甲州征伐


   天正10年(1582年)3月に甲斐武田氏が滅亡した後は織田氏の武将滝川一益に伺候する。秀景はこの時武田豊信に出仕を促し、梶原政景を仲介するなど一益の補佐役に位置する立場にあった。 同年6月の神流川の戦いでも北条氏直率いる軍勢と戦い奮戦するが、敗れた一益が関東から撤退すると、和田信業らと共に後北条氏の軍門に降る。この時、秀景は一益との別れを惜しみ、真田昌幸らと木曾まで一益を警固している。






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最終更新日  2024年10月18日 07時29分45秒
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