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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年10月24日
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カテゴリ:戦国


  
三好政権内における地位


   将軍御成における久秀の仕事は、彼が御供衆として非常に多くの仕事をこなしていたことを示し、それは、久秀が幕府・将軍と三好家の間を仲介し、両者の関係を取り持ち深化させる紐帯としての役割を持っていた証左でもある。


   御供衆への任命によって、久秀は三好家家臣・長慶被官として活動するのと同時に、義輝の側近のような立場としても活動した。


   永禄4年(1561年)、足利義輝が三好義興の邸宅に御成した際の、久秀の行動からはそれを如実に伺わせる。


   久秀は、三好義興が義輝の相伴衆に任命されるとほぼ同時に御供衆に任じられ、同時期に従四位下の官位を授与され、桐紋の使用を許可されていることから、家中における地位は長慶嫡男である義興と同格に近いものだったとみられる(相伴衆と御供衆の違いはあるが)。こうした飛躍的な出世、当主の嫡男と同格の地位まで登りつめたことが、彼が三好家に下剋上をして成り上がったと後世で言われる一因ではないかと指摘される。しかし、三好家の実権は没するまで長慶が握っていた、つまり三好家の実質的なトップは最期まで長慶であり、久秀は長慶を出し抜こうとしたりその意に反した形跡はない[46]


   また、久秀は三好長慶から大和一国の管理を任され、その権勢は非常に強く、一国の大名のような立場になっていた。


   畿内の覇権をめざして


   永禄4年(1561年)11月には三好義興と共に六角義賢と京都付近で戦う(将軍地蔵山の戦い)。永禄5年(1562年)に三好軍を結集させ河内へ出陣し、5月に義賢と結んだ河内国の畠山高政を打ち破り(久米田の戦い、教興寺の戦い)、紀伊国へ追放している(6月には義賢と和睦)。


   9月に長慶に逆らった幕府政所執事の伊勢貞孝・貞良父子を討伐するなど功績を挙げていく。同年に大和と山城の国境付近に多聞山城を築城・移住し、大和国人・十市遠勝を降伏させ、永禄6年(1563年)1月には多武峰衆徒と戦うが苦戦し、足利義輝に仲介を依頼している。


   この時、和睦を仲介していた義輝はそれに応じない多武峰側に不快感を示していたという記録(『お湯殿の上日記』)があり、心情的に久秀側擁護に回っているとも解釈できる。敵対時には久秀が義輝の境遇を「天罰」と罵り、また永禄年間に曼殊院と松梅院との相論を巡り義輝と久秀が激しく口論を行う姿が記録される(『左衛門督局奉書案』)など、当初は険悪な関係にあったと思われる両者だが、義興・久秀が幕臣として義輝と接する機会も増え、決して常に対立していた関係ではなかったとも言える。


   この年の12月14日、家督を嫡男・久通に譲ったが(厳助往年記)、隠居したというわけではなく、以後も前線で活躍する。


   久秀が勢力を増加させていく一方で、主君・三好長慶は弟の十河一存、三好実休、嫡男・三好義興の相次ぐ死去などの不幸が重なった。


   一存や義興については久秀による暗殺説もあるが、一存の死因は落馬、義興は病死とされている。 また岩成友通に宛てた書状では、義興が病に倒れたことに心を痛め、改めて三好家に忠誠を誓い討死せん覚悟があることを伝えている。


   永禄7年(1564年)5月9日、三好長慶の弟である安宅冬康の死去により、三好家では久秀に並ぶ実力者は、阿波で国主を補佐していた篠原長房のみとなる。


   7月4日に長慶が死没すると、しばらくは三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)らと共に長慶の甥・三好義継を担いで三好家を支えた。


   永禄8年(1565年)5月19日、息子の久通と三好義継、三好三人衆が軍勢を率いて上洛し、室町御所の足利義輝を襲撃して殺害する(永禄の変)。この事件は久秀が首謀者のように言われているが、この時期の久秀は京への出仕は久通に任せ大和国にいることが多く、事件当日も大和国におり参加していない。


   また覚慶と号し、この当時僧籍に入っていた還俗前の足利義昭の書状から、久秀は事件直後に義昭の命は取るつもりはないと誓詞を出しており、実際に興福寺での監禁は外出を禁止する程度でさほど厳しいものではなかった。


   義継・久通・三人衆ら襲撃犯が義輝の子を懐妊していた侍女や弟の周暠を殺害したことに比較すると温情的な処置であり、久秀は義輝殺害に全く関与していなかった、または消極的だったとも言える。


   一方で、久秀は義輝殺害に強く反発した形跡が見られず、殺害そのものは容認していたのではないかとも推測される。久秀は義輝の死という突発的な状況に、義昭を庇護してそれを将軍に据え傀儡として操ろうとしていたのではないか、とも言われる。


   久秀は直後、キリシタン宣教師を追放する。 しかし、同年8月2日に弟・長頼が丹波国で敗死して三好家は丹波国を喪失。やがて久秀は畿内の主導権をめぐり三人衆と対立するようになり、11月16日に義継を担いだ三人衆が久秀と断交。両者は三好家中を二分して争い、これが内乱の幕開けとなった。


   永禄9年(1566年)には三好康長や安宅信康ら一門衆も三人衆側に加担し、三人衆が新たに担いだ14代将軍・足利義栄からも討伐令を出されるなど、久秀は三好家中で孤立してしまう。


   2月に畠山高政・安見宗房と同盟を結び、根来衆とも連携して義継の居城高屋城を攻撃するなど何とか勢力の挽回を図ろうとするも、三人衆は和泉国堺を襲撃。2月17日、久秀は畠山軍とともに三人衆と同盟者の大和国人・筒井順慶と堺近郊の上芝で戦うが(上芝の戦い)、両者の挟撃を受け松永・畠山軍は敗退する。久秀は一旦多聞山城に退却して5月に再度出陣し、かつての領国摂津で味方を募り堺で畠山軍と合流した。


   高屋城では三好義継の被官である金山氏(金山信貞か)が久秀へ内応を図るが高屋衆に阻止され失敗し、高屋城から出撃した三人衆に堺も包囲されたため久秀は5月30日に堺から逃亡し、数ヶ月間行方不明となった(『永禄以来年代記』)。高政は三人衆と和睦し、摂津・山城の松永方の諸城は篠原長房・池田勝正などの援軍を加えた三人衆に次々に落とされ、留守中の多聞山城は久通が守っていたが、筒井順慶が大和を荒らし回るなど劣勢に立たされた。


   ところが、永禄10年(1567年)2月16日に再び金山信貞の手引きで三人衆のもとから三好義継が久秀を頼って出奔してきたため、これを契機に勢力を盛り返し、4月7日に堺から信貴山城に復帰した。


   4月18日に三人衆が大和へ出陣。久秀は長い対陣の末に10月10日に三人衆の陣である東大寺の奇襲に成功し、畿内の主導権を得た(東大寺大仏殿の戦い)。


   このとき大仏殿が焼失し、大仏の首も落ちた。茶人でもあった久秀は、近辺の松屋久政の手貝屋敷となっていた茶室・珠光座敷が失われるのを惜しみ、進攻に先立ち、松屋の椿井邸宅に解体して避難させた(『松屋会記』)。


   一般的には久秀の命によるとされているが、大仏殿に火を点けたのは誰か(あるいはそもそも放火なのか失火なのか)については諸説ある。


   松永久秀軍による兵火の残り火が倉庫に燃えつき、そして法華堂から大仏殿回廊にまわり本殿に燃え移った失火であると、同日の奈良での記録がある(『大乗院日記』)。


   その一方、ルイス・フロイスの『日本史』では、この出火は三好方のキリシタンの放火によると記述されている。


   三好義継は2月28日付で南山城国人の椿井氏に宛てた書状で、三好三人衆の悪逆無道を鳴らし、また久秀の三好家に対する忠誠心を賞し、これを見離せず鞍替えしたと述べている。


   実際これ以降の久秀の行動は義継とほぼ共にあり、三人衆や阿波三好家(三好長治)とは激しく対立したものの、やはり三好家当主には忠実だったと言える。


   しかし、この時点で久秀に味方したのは畠山高政や根来衆、箸尾高春ら一部の勢力だけで、四国に強い地盤を持つ阿波三好家の篠原長房率いる大軍勢を味方につけた三人衆とは大きな勢力の開きがあり、三人衆との戦いは終始劣勢であった。永禄11年(1568年)になっても三人衆は軍を大和に駐屯させたまま久秀の監視体制を継続、6月29日に信貴山城が三人衆に落とされるまでになった(信貴山城の戦い)。


   多聞山城に籠城していた久秀が打開策として考えていたのが織田信長の上洛で、永禄9年(1566年)の段階で既に信長と交信していて、信長も大和国人衆に久秀への助力を伝えている。


 


当主・畠山秋高は信長派だったが、元亀4年(1573年


6月、秋高は義昭派の守護代・遊佐信教に自害させられ


しまった


    


   〇「遊佐 信教」(ゆさ のぶのり)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。尾州畠山氏の家臣。河内国守護代。


   畠山政長系の高屋畠山氏重臣・遊佐長教の子として誕生。天文20年(1551年)5月5日、長教が萱振氏によって暗殺されると、安見宗房・丹下盛知に擁立された一族の遊佐太藤が信教に代わって遊佐氏を纏めていくが、守護の畠山高政に遠ざけられてしまう天文末年以後の太藤の消息は詳らかではない。


   永禄3年(1560年)、三好長慶が河内に侵攻すると抵抗むなしく高屋城を占領され、畠山高政・信教・安見宗房など大半が追放される。


   永禄6年(1563年)9月18日、信教は河内国金剛寺に「所当官物」以下の免除を認める判物を発給しており、依然、畠山氏の勢力がまだ及んでいる地域もあった。信教は若年だが遊佐氏の当主としての顔をも見せている。


   永禄8年(1565年)、室町幕府13代将軍・足利義輝が三好三人衆らに討たれる永禄の変が発生すると、高政は家督を弟・畠山秋高(政頼)に譲り、義輝の実弟である足利義昭の擁立に奔走する。


   なお、永禄12年(1569年)に、信教は安見宗房と図り、主君の畠山高政を追放してその弟・秋高を擁立し、これを傀儡として主家を牛耳ったとの話が『足利季世記』にはあるが、後世の軍記物の記述のため信憑性は無い。


   永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を擁立して上洛すると、畠山兄弟はこれに従い、高屋城と河内南半国を安堵され、信教も高屋城に復帰を果たしたが、義昭と信長が対立すると畠山氏内部にも動揺が走った。


   当初こそ秋高・信教は義昭派に属していたが、義昭が一時信長に降伏すると、信長の威勢に怯んだのか秋高は信長派に通じたようで、信教と対立する。そのため元亀4年(1573年)6月25日、信教は秋高を殺害する。


   秋高の内衆である遊佐盛・保田知宗・平三郎左衛門らは当初は信教と共に高屋城に留まるも、信教への反発もあったのか、天正2年(1574年)頃に信長方に転じている。


   義昭が京を追放されるなか、同じく反信長派であった三好康長と手を組み、康長を高屋城に入城させて共に信長に反攻した。


   しかし、天正3年(1575年)に信長軍の攻撃を受け(高屋城の戦い)、4月21日高屋城は降伏した。降伏した康長は信長の家臣となったが、当時の記録のどれにも信教が高屋城の戦いで戦死したとしているものはない。


   『吉川家文書』1―493号によると、足利義昭の鞆動座(1576年)以降に出された本願寺関係者と見られる吉川元春宛頼英書状で、「遊佐」「河内入道」を差し下すと書かれており、これがその後の信教に比定されている。


   更に「生駒文書」(愛知県史資料編十二)に、小牧・長久手の戦いの頃と思われる「遊佐河内守」宛の織田信雄徳川家康書状があり、保田知宗・平三郎左衛門ら畠山氏旧臣らと共に反秀吉の動きをしていたものと思われる。


   信教の子・高教は元亀2年(1573年)に生まれ、秀吉・秀頼に仕えたが大坂の陣で豊臣氏は滅び浪人となる。


   その後は徳川忠長に仕えたが忠長も改易され再び浪人となり、寛永15年(1638年)に没した。高教の養子・長正は徳川頼宣に仕えた。


   歌道に優れていたともいわれている。


 


安見宗房もこの頃には死去し、秋高の弔い合戦を行った兄の高政も信教に敗れて追われ、畠山家中の主導権は信教が握った。


 


4「信長包囲網が崩壊」


しかし包囲網側は劣勢に立たされた。7月に槇島城の戦いで足利義昭が京都から追放され、8月には一乗谷城の戦いで朝倉義景が自害、9月には小谷城の戦いで浅井長政が敗死。


    


   〇「槇島城の戦い」(まきしまじょうのたたかい)は、元亀4年(1573年)2月から7月にかけて行なわれた織田信長と室町幕府第15代将軍足利義昭の戦い。義昭が敗れて京都から追放され、室町幕府は実質的に滅亡した。この戦の後の7月28日、元亀から天正への改元が行なわれた。


   足利義昭と織田信長の対立


   永禄11年(1568年)9月、織田信長に擁されて上洛し、室町幕府第15代将軍に就任した義昭は当初は信長と協調関係にあったが、将軍権力の抑制を図る信長の一連の動き(永禄12年(1569年)1月に信長が出した殿中御掟等)により次第に信長と対立するようになり、元亀3年(1572年)9月には信長から義昭に17条の意見書が突きつけられ、両者の対立は決定的になる。『信長公記』によれば、この時期には既に義昭が信長に対し反抗する意思を有していたことは明白になっていたとされている。


   義昭は浅井長政・朝倉義景・石山本願寺などを扇動して信長を攻撃し(信長包囲網)、元亀3年(1572年)10月、これに武田信玄が加わったが(西上作戦)、信玄の体調が悪化し、元亀4年(1573年)1月頃に武田軍の攻勢が停止している。


   足利義昭の篭城


   一方、義昭は二条城の周囲に新たな堀を巡らし、弾薬を運び込むなどしていた。この頃、伏見城の三淵藤英が織田方についた異母弟細川藤孝の勝竜寺城を襲撃しようとしたとされる。


   また、淀城には足利義昭の重臣となった岩成友通が入っており、近江の今堅田・石山には山岡光浄院、磯谷久次、渡辺昌(宮内少輔)らを入れ砦を構築していた。


   信長は義昭に朝山日乗・島田秀満・村井貞勝らを使者として送り、娘を人質にすることを条件に和睦しようとしたが、義昭はこれを認めなかった。


   信長側は「もし和解せずば兵力を尽くして来たり、都を焼き、火と血に委ねん」として、今堅田・石山砦を攻撃することを決めた。当時、京にいてこの様子を目撃したルイス・フロイスは次のように記している。


   「彼ら(京の市民)は、彼(信長)が公方様(足利義昭)を討伐するために軍勢を召集していると聞くや否や、急遽、わずかの地所を隔てていた上京、ならびに下京から立ち去った。


   一里にわたる市街の混乱や動揺する情景を眺めるのは恐ろしいことであった。すなわち、日夜見るものすべては混乱以外の何ものでもなく、人々は家財を引き、婦女子や老人は都に近接した村落に逃れ、あるいは子供たちの手を引き、腕に抱いて、どこへ行くべきか途方に暮れ、泣きながら市中を彷徨するのであった」


   今堅田・石山の戦い


   2月20日、信長は柴田勝家(長光寺)・明智光秀(坂本)・丹羽長秀(佐和山)・蜂屋頼隆(安土)ら四将を派遣、24日に勢田から琵琶湖を渡り、石山砦に攻撃をかけた。守備隊には山岡光浄院が率いる、伊賀衆・甲賀衆が在番していたが、砦がまだ完全に出来上がっておらず、26日に降伏して退却、四将は砦を取り壊した。


   続いて29日に四将は今堅田砦を攻撃。午前8時ごろから明智光秀が東(琵琶湖上)から船で、丹羽・蜂屋は南東からそれぞれ攻めかかり、正午ごろに明智隊が突入し、勝利した。光秀はそのまま坂本城に入り、他の三将は帰還した。この戦いで砦側は死者500人、負傷者1,000余人を出したとされる。


   二条城の戦い


   ここでついに足利義昭自身が松永久秀や三好義継、三好三人衆らと結んで挙兵し、公然と信長と戦う姿勢を見せた。これを受けて、京には次のような落首が立てられた。


   「かぞいろと やしたひ立てし 甲斐もなく いたくも花を 雨のうつ音」(信長が義昭をまるで父母を扱うように養ってきた甲斐もなく、雨がはげしく花(=花の御所。将軍を暗示)を打つ音がすることだ)


   3月11日には、高山友照に斬られた高槻城主の和田惟長が三淵藤英の伏見城に逃げ込むという事件が起きている。3月25日、信長は足利義昭の兵を討つため岐阜を出陣した。


   しかし京では「武田信玄は3~4万人を率いて信長に近づいている」「朝倉義景は"もし信長が京にくれば2万人を率いてその背後を襲う"と公言している」「三好軍と石山本願寺勢の計15000人が京に向かっている」「赤井直正が義昭方として京に出陣する」などの風説があり、京の人々は信長が京に進軍して来ることが可能であるとは思っていなかった。


   3月27日、京に「信長はすでに近江に来ており、近いうちに京にやってくる」との報が伝わり、京の町は混乱に陥った。義昭はすぐに奉公衆など5000人(うち鉄砲兵1000人)、摂津衆[6]、丹波衆、宇津頼重[6]、内藤如安等1700~3000人を二条城に引き入れた。


   3月29日の午前9~10時頃、信長は自ら10~12騎ほどの供を連れて先陣を切った上で、5,000~6,000騎を率いて京の市外4分の1里ほどの地点に現れた。正午頃、信長と明智光秀の調略を受けた荒木村重・細川藤孝が到着。両名は逢坂で信長を出迎えた。


   こうして信長の軍勢に約10000人(荒木勢4000~5000、細川勢、および後続の織田勢)が加わり、織田軍は合計15,000~16,000人ほどとなった。信長勢は東山・知恩院に布陣し、配下の諸隊は白川・粟田口・祇園・清水・六波羅・竹田などに布陣した。信長は到着後、内裏に黄金5枚を贈り「安心されたし」と伝言した。


   敵対はしたものの、義昭は名目上とはいえ征夷大将軍であるため、世評を考慮した信長は、光秀と藤孝を使者として義昭のもとに送り、自らの剃髪および人質を差し出すことを条件にして和睦を求めた。


   しかし義昭はこれを拒絶し、30日には信長方の京都所司代であった村井貞勝の屋敷を包囲して焼き払った。






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最終更新日  2024年10月24日 06時55分48秒
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