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歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年10月28日
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カテゴリ:戦国



4「川中島の戦い」


相模国を拠点に関東支配を目指す後北条氏(以下、単に北条氏)は、甲斐国の武田氏、駿河国の今川氏と三国同盟を結んだ。北条氏康は、信濃侵攻を行う北信地域において上杉方と抗争(川中島の戦い)を行っていた武田信玄と連携して北関東に侵攻した。


川中島の戦い(かわなかじまのたたかい)は、日本の戦国時代に、甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名である武田信玄(武田晴信)と越後国(現在の新潟県)の戦国大名である上杉謙信(長尾景虎)との間で、北信濃の支配権を巡って行われた数次の戦いをいう。


最大の激戦となった第四次の戦いが千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である川中島(現在の長野県長野市南郊)を中心に行われたことから、その他の場所で行われた戦いも総称として川中島の戦いと呼ばれる。


なお、上記の指揮官、戦力、損害については第四次合戦のものであることを断っておく。


川中島の戦いの主な戦闘は、計5回、12年余りに及ぶ。実際に「川中島」で戦闘が行われたのは、第二次の犀川の戦いと第四次のみであり、一般に「川中島の戦い」と言った場合、最大の激戦であった第4次合戦(永禄4年9月9日(1561年10月17日)から10日(18日))を指すことが多く、一連の戦いを甲越対決として区別する概念もある(柴辻俊六による)。


第一次合戦:天文22年(1553年)


第二次合戦:天文24年(1555年)


第三次合戦:弘治3年( 


第五次合戦:永禄7年(1564年)


戦いは、上杉氏側が北信濃の与力豪族領の奪回を、武田氏側が北信濃の攻略を目的とした。武田氏の支配地は着実に北上している。


なお、上記の「五回説」が現在では一般的であるが、異説も存在する。特に明治期には田中義成が軍記物の信憑性を否定し、上記第二次と第四次のみを確実とする「二回説」を提唱した。


1929年には渡辺世祐がはじめて五回説を提唱し、戦後は小林計一郎以来この五回説が支持されている。


二回説は直接両軍が交戦した二回までは記録が残っているが、他の戦いは交戦を避けたりしている場合が多いため、1932年の北村建信ら「二回説」を主張する研究者の理屈にも一定の説得力があるといえるが、一般的とは言いがたい。



戦国期東国の地域情勢と川中島合戦


室町期の東国は鎌倉公方の分裂や鎌倉公方と関東管領の対立などの影響を受けて乱国状態にあったが、戦国期には各地で戦国大名化した地域権力が出現し、甲斐国では守護武田氏、越後国では守護代の長尾氏による国内統一が進んでいた。


甲斐国は信虎期に国内統一が成され、対外的には両上杉氏や駿河今川氏、信濃諏訪氏との和睦が成立し、信濃佐久郡・小県郡への侵攻を志向していた。


武田氏では天文11年(1542年)に晴信への当主交代があり、晴信期には諏訪氏との同盟関係が手切となる。


なお、天文11年には関東管領上杉憲政が佐久郡出兵を行っており、諏訪氏は同盟関係にあった武田氏や村上氏への通告なく佐久郡の割譲を行っており、武田氏ではこれを盟約違反と捉えたものと考えられている


武田氏は諏訪郡を制圧し信濃侵攻を本格化させ、相模後北条氏との関係改善を図る外交方針の転換を行う。


それまで武田氏と友好的関係にあった山内上杉家は関東において北条氏と敵対していたため、北条氏との同盟は山内上杉氏との関係悪化を招き、信濃国衆を庇護した山内上杉氏と対立していく。


その後も信濃国への出兵を繰り返し、信濃の領国化を進めた。これに対して、佐久に隣接する小県方面では村上氏が、諏訪に隣接する中信地方では深志を拠点とした信濃守護家の小笠原氏が抵抗を続けていた。


武田氏は、高遠氏、藤沢氏、大井氏など信濃国人衆を攻略、天文16年(1547年)には佐久に影響力を残していた関東管領上杉憲政を小田井原で破り、笠原氏の志賀城(佐久市)を落として村上氏と対峙する。


天文17年(1548年)の上田原の戦いでは村上義清に敗北を喫するが、塩尻峠の戦いで小笠原長時を撃破して、天文19年(1550年)には小笠原長時を追い払い、中信地方を制圧する。


同年、村上義清の支城の戸石城(砥石城とも)を攻めるが、敗退する(砥石崩れ)。しかし、翌天文20年(1551年)、真田幸隆の働きにより、戸石城を落とすことに成功。


また屋代氏などの北部の与力衆の離反もあって村上義清は本拠地葛尾城に孤立し、武田氏の勢力は善光寺(川中島)以北や南信濃の一部を除き、信濃国のほぼ全域に広がる事になった。


対武田では村上氏と協力関係にあった長野盆地以北の北信濃国人衆(高梨氏や井上氏の一族など)は、元々村上氏と北信の覇権を争っていた時代から越後の守護代家であった長尾氏と繋がりがあり、村上氏の勢力が衰退し代わって武田氏の脅威が増大すると援助を求めるようになった。


特に高梨氏とは以前から縁戚関係を結んでおり、父長尾為景の実母は高梨家出身であり、越後の守護でもあった関東管領上杉氏との戦いでは、先々代高梨政盛から多大な支援を受けていた。


更に当代の高梨政頼の妻は景虎の叔母でもあり、景虎は北信濃での戦いに本格的に介入することになる。



川中島


信濃国北部、千曲川のほとりには長野盆地と呼ばれる盆地が広がる。この地には信仰を集める名刹・善光寺があり、戸隠神社や小菅神社、飯綱など修験道の聖地もあって有力な経済圏を形成していた。


長野盆地の南、犀川と千曲川の合流地点から広がる地を川中島と呼ぶ。当時の川中島は、幾つかの小河川が流れる沼沢地と荒地が広がるものの洪水堆積の土壌は肥えて、米収穫高は当時の越後全土を上回った。


鎌倉時代から始まったとされる二毛作による麦の収穫もあり、河川は鮭や鱒の溯上も多く経済的な価値は高かった。古来、交通の要衝であり、戦略上の価値も高かった。武田にとっては長野盆地以北の北信濃から越後国へとつながる要地であり、上杉にとっては千曲川沿いに東に進めば小県・佐久を通って上野・甲斐に至り、そのまま南下すれば信濃国府のあった松本盆地に至る要地であった。


この地域には栗田氏や市川氏、屋代、小田切、島津などの小国人領主や地侍が分立していたが、徐々に村上氏の支配下に組み込まれていった。


これらの者達は、武田氏が信濃に侵攻を始めた当初は村上義清に従っていたが、村上氏の勢力が衰退すると武田氏に応じる者が出始める。


 


5「小田原城の戦い」


、上杉謙信の関東出兵(小田原城の戦い)をも退け、上杉氏との抗争を優位に進めた。


小田原城の戦い(おだわらじょうのたたかい)は、永禄3年(1560年)から永禄4年(1561年)に、関東の上野、武蔵、相模において、上杉氏、長尾氏の連合軍と後北条氏によって行われた一連の合戦である。大槻合戦ともいう。この合戦は、その後10年余にわたる上杉謙信による関東遠征の端緒である。本項では、合戦の経緯として、上杉軍の越山から小田原城包囲戦前後の緒城攻防戦、関連事項についても併せて解説する。



合戦にいたる経緯


関東管領である上野国平井城城主・上杉憲政は、河越城の戦いに敗れて以来、相模の後北条氏から圧迫を受け、徐々に勢力をそがれ、武蔵から北関東をうかがわれる状況になっていた。


そのため、信濃の村上義清らと上信同盟を結び、これに対抗しようとしたが、このことから信濃侵攻を目指す武田氏とも対決せざる得なくなり、結果小田井原の戦いに敗れ、本拠の平井城も危うくなってしまった。


このため越後の上杉謙信(当時の名は長尾景虎)を頼った。謙信は1559年には上洛し、関白近衛前久を奉じ関東管領を補佐すべく後北条氏討伐を計画した。



緒城攻略戦


永禄3年(1560年)8月26日、里見義堯からの救援要請をきっかけに、謙信は越後勢8000余りを率い北条氏康を討伐するため出陣。三国峠を越え10月初旬、上野に侵攻すると沼田城を攻略、城主北条氏秀(沼田康元)を追うと、岩下城、続いて厩橋城を落とす。謙信は厩橋城を接収し関東攻めの拠点とすると那波氏の居城・那波城を攻略、更に武蔵に南下して羽生城も陥落させた。


一方、北条氏康は里見義堯の久留里城を包囲していたが、上杉軍の襲来を知り河越城を経由し、9月下旬頃松山城 (武蔵国)に入る。


上野・武蔵の諸将は、旧主である憲政および関白・近衛前久を奉じ、圧倒的な軍事力を見せる謙信のもとへ参集した。


対して、常陸・下野の反応は鈍く、謙信は29日、龍渓寺にさらなる説得を依頼している(謙信公御年譜・上越市史218)。太田資正にも正木時茂と原胤貞の抗争の仲介を依頼した(上杉家文書)。


しかし親北条氏の家老原氏の原胤貞が実権を掌握している下総の守護千葉氏の惣領千葉胤富は古河の北条氏に援軍を送り、のちに和議を申し入れて謙信の関東管領就任式に参列したものの、上杉軍に加わることはなかった。


『小田原衆所領役帳』に記載された他国(伊豆・相模以外)衆からの離反が相次ぎ、北条氏の擁する古河公方の足利義氏からの諸将への要請も奏功せず、謙信の進撃の前に劣勢に立たされた氏康は、同盟する武田信玄に援軍と背後からの牽制を要請。


さらには今川氏に救援を求めると、今川義元を織田信長に討ち取られた直後で混迷の中にも関わらず今川氏真は河越城等に援軍を派兵する(仏厳寺文書・小倉文書他。しかし謙信率いる遠征軍の勢いは止まらず、氏康は、松山城 (武蔵国)から小田原城へ退き、篭城策を選択する。


12月初旬、上杉軍に河越城、古河御所といった重要拠点を包囲され、古河公方の足利義氏をはじめ北条方の支城では、玉縄城の北条氏繁、滝山城の北条氏照や河越城の北条氏尭も篭城に徹した。


永禄4年(1561年)謙信は厩橋城で年を越した。2月になると越後に残っていた直江実綱も関東に召集された(上越史253)。


そのまま上野から侵攻し、関東公方の在所である足利義氏の本拠地・古河御所を制圧、2月下旬に松山城 (武蔵国)に着き、同27日鎌倉鶴岡八幡宮に勝利の願文を捧げたのち(妙本寺文書・上越史259・260・263)、海沿いを進撃。藤沢、平塚を経由し小田原に攻め込んだ。



小田原城の戦い


永禄4年(1561年)3月、参陣の遅れていた北関東の諸将も謙信の元に結集し、この頃『関東幕注文』が完成する。謙信は旧上杉家家臣団も含め10万人を超える大軍となった遠征軍(関八州古戦録では11万3千人とも。9万余説もあり)で、小田原城をはじめとする諸城を包囲、攻撃を開始した。


上杉軍先陣は3月3日頃に当麻(相模原市南区)に陣を取り、同8日に中筋(中郡)に達し、14日には大槻(秦野市)で、北条方の大藤秀信隊と激突した(大藤文書・田原城主大藤式部丞宛て感状)。


しかし上杉軍はさらに南下、22日に曽我山(小田原市曽我)、24日にぬた山(南足柄市怒田)でも戦闘が行われた。謙信も3月下旬までには小田原近辺に迫り、酒匂川辺に陣を張った(古今消息集・越4-285)。


攻防の中心となった北条氏の本城・小田原城では、太田資正の部隊が小田原城の蓮池門へ突入、激しく攻め立て北条軍も粘り強い抵抗を見せたと、後世成立の軍記である『関八州古戦録』等は伝えている。


信頼性の高い史料にこの時の包囲戦の様子の詳細を伝える物はなく、わずかに上杉家文書で、小田原城下での両軍のぶつかり合いは認められず、挑発のため城下に放火をしても北条方は城から討って出ることはなかったとされる。


3月下旬には氏康と同盟を結ぶ武田氏の援軍が甲斐吉田に到着する(大藤文書)。今川氏の援軍も近日出陣のための準備ができたと知らせが入った(大藤文書)。


また、この頃既に長期布陣に対する不満が遠征軍諸将から出始めていた。越後でも関東への兵や荷の輸送についての紛争が各地で起り、謙信は伝馬・輸送に関する制札を出している(相沢清右衛門所蔵文書・『上越市史』264)。


閏3月初め、謙信は参陣諸将とともに鎌倉に移り、関東管領就任式を執り行い、長尾景虎から上杉政虎へと改名する。


謙信は関東管領として戴く古河公方に近衛前久を迎え入れたかったが、関東の諸将では小山秀綱が足利藤氏を推し、簗田晴助が足利藤政を推して揉めた。


謙信は、同16日、簗田晴助に起請文を与え、藤氏が擁立されることになったもの連合軍が一枚岩では無い事が露呈してしまった。それでも謙信は山内に数日間滞在し、関東諸将と談合。また参陣をねぎらった。


一方、武田信玄は北条氏支援のため北信濃に出兵し、4月、または5月に謙信の属城割ヶ岳城を落としたとされる。


さらに信濃・川中島に海津城を完成させた。この城は川中島で信玄方と睨み合いを続ける謙信方にとって脅威であり、謙信も川中島で対抗策を講じる必要に迫られる。また武田氏が扇動した一向一揆が越中で蜂起した。


また当時、関東では飢饉が続発していたため兵糧に窮していたともいわれ、上杉軍内部においても長期に渡る出兵を維持できないとして佐竹義昭・小田氏・宇都宮氏が撤兵を要求(「杉原謙氏所蔵文書」『歴代古案』)、一部諸将が無断で陣を引き払った(『謙信公御年譜』)。


松山城 (武蔵国)では上田朝直が反旗を翻すなど、参陣諸将の足並みが乱れたこともあり、結局、小田原城を落城させるには至らなかった。


玉縄城、滝山城、河越城、江戸城等の北条氏直下の支城も落ちることなく持ちこたえた。謙信は、川中島において信玄と雌雄を決する意図もあり、再び小田原城に向かうことなく軍を引き、鎌倉を発った(上杉家文書)。


謙信はこの後、越後へ帰還途上の4月、北条方へ寝返った上田朝直の松山城 (武蔵国)を攻略、城将として上杉憲勝を残した。


古河御所には足利藤氏とともに近衛前久がおかれた。謙信は、将軍足利義輝から関東出兵をねぎらう御内書を受け取り、6月下旬には厩橋城をたち、10ヶ月に及ぶ関東遠征を終えた。






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最終更新日  2024年10月28日 06時30分10秒
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