「石徹白騒動」七、「三分の一の年貢化」
七、「三分の一の年貢化」 また石徹白豊前は郡上藩役人の協力を受けて、石徹白の検地を実施し、これまで白山中居神社の神地として年貢は免除されていたものを、収穫量の三分の一を年貢として取り立てるようになった。 この豊前によって新たに開始された年貢取立てについては、極めて厳しい財政状態にあった郡上藩が、石徹白豊前による石徹白支配の確立を図った上で、これまで年貢取立てを行い得なかった石徹白から、新たに年貢による収入を確保するもくろみがあったとの説が唱えられている。「石徹白村の支配を我が豊前に認めてもらえるなら、免徐から三分の一の年貢に協力しよう」と豊前は妥協し、石徹白社人や村人らに年貢を認めさせた。 これに対して、確かに石徹白豊前の贈賄工作は郡上藩寺社奉行の根尾甚左衛門らの寺社奉行関係者に留まらず、家老職の渡辺外記、粥川仁兵衛にまで及んでおり、石徹白の神主豊前が社人に三分の一の年貢を課す件については、郡上藩家老レベルまでの了承は得ていたと考えられる。 幕府評定所による宝暦八年の判決では、石徹白豊前の罪状には社人に三分の一の年貢を課した件が挙げられているものの、寺社奉行や郡上藩家老の罪状として石徹白に新たに年貢を課した点は挙げられておらず、石徹白豊前からの収賄が罪状に含まれている。 つまりこれは石徹白社人の年貢として豊前が得た収入の一部を、郡上藩役人らが賄賂という形で私腹を肥やす行為があったと考えられるが、郡上藩の収入確保という目的はなかったとの説がある。 八、「箱訴訟」 杉本左近らしばらく京都に活動していたが、美濃に戻り、五百人の余りがやはり美濃に逃れていた。 追放され生き残った者は、善後策を講じて江戸に赴き訴訟を起こそうという事になり、宝暦六年七月末に杉本左近は単身江戸に向かった。 江戸に到着した左近は、公事宿である上野町上州屋新五郎方に宿を定めた。左近は上州屋で石徹白から追放された舎人八四名の連署を書き、宝暦六年八月四日に駕籠で登城する老中松平武元の行列に訴状を持って飛びこんだ。「お願いでございます」 警固の周りの家臣らは駆け寄り杉本左近を払いのけた。それでも左近は必死で駕籠に向かって、「お願いでございます」と言って竹の先に結わいつけた訴状を差し出し続けた。「まて」老中の声が駕籠から聞こえて「訴状を受理してやれ」ひそひそ声が聞こえて、受理されたことが分かった。駕籠訴を行った左近は当面上州屋新五郎のお預けとなった。 ※松平 武元正徳三年生まれ、上野館林藩および陸奥棚倉藩の藩主。親藩なが ら江戸幕府の寺社奉行、老中を務めた。越智松平家三代。 ※本多忠央・正徳元年生まれ、江戸時代中期の大名。本多忠次の長男。正徳 元年四歳で三河藩主本多家三代となる。相良に転封。宝暦八年西丸若年寄に。 同年美濃八幡藩の百姓一揆に関連して領地没収となり,美作津山に配流され た八一歳で没。 訴状は宝暦六年八月四日に寺社奉行の本多忠央に回され、本多は寺社奉行に改めさせて、金森家に訴状が回された。 宝暦六年一一月、石徹白豊前は江戸に呼び出され、吟味されるが、その間も豊前は郡上藩の役人と結託し、悪行重ね以前と変わらない横行を繰り返し、餓死者は四〇人は超えていた。 このような状態でも、豪農篠田源兵衛は追放された石徹白の社人たちを支援す続けた。 江戸での訴状以後事態は遅々と進展しないので「我々三名で、もう一度訴えよう」と言って、上村十郎兵衛・上村五郎右兵衛・植村七右兵衛の三名は代表として八二名の社人と家持の家来の六名が署名した訴状を再度江戸に赴き、宝暦七年一一月にに本多忠央に奏上を提出され受理された。 それでも吟味は進まず、餓死者が増えるばかりで好転せず、舎人たちの団結も揺るぎ始めた折り、事態を救ったのが篠田源兵衛で江戸での人材不足と人数不足で資金不足があったので、篠田は士気を増やし、京都の白川家から幕府に、朝廷に訴える策を立てた。 宝暦八月二月二六日、長尾佐兵衛、久保田九朗助の二名が白川家に対して働きかけをする為京都に旅立った。「我ら京都の白川家に掛け合って、幕府への力添えを願いに行ってきます」 宝暦八年六月初め、久保田九朗助、森左衛門が五月までに今まで非業の死を遂げた社人追放者、餓死者の名簿を七二名の作成がが終わり江戸に向かった。 六月の中旬に到着した一行は前回と違う公事宿で下谷町松屋源助方に宿を定めた。