「高杉晋作と功山寺挙兵」五卿 了
五卿八月十八日の政変により、長州に亡命し山口に在した七卿落ちの残存メンバー。 禁門の変の際には上洛しようとしたが、失敗して山口に戻っている。 攘夷の意志を持ち、諸隊が俗論派に追われて山口を退出する際は長府行に同行した。 五卿の長州退去が戦争回避の条件の一部となり九州へ移る際も、最大限正義派の為に行動したと言われている。· 三条実美· 三条西季知· 四条隆謌· 東久世通禧· 壬生基修脱藩浪士禁門の変の際に決起し、敗北後は長州軍に帯同し長州に亡命した諸国の脱藩浪士たち。 亡命後は五卿の家臣になるか、正義派諸隊の一つである遊撃隊に入隊するかに別れた。 征長軍が迫る際、他藩にネットワークを持つ脱藩浪士たちは長州を救うべく他藩へ積極的に和平斡旋をした。 五卿が長州から退去する際は、五卿を奉じる脱藩浪士は一緒に九州に移り、遊撃隊の脱藩浪士は高杉晋作の決起に協力した。 総員は遊撃隊に入隊した者を含め70人程度であると言われている。· 中岡慎太郎 (土佐脱藩浪士 公卿らの世話役)· 中村円太 (福岡脱藩浪士)· 淵上郁太郎 (久留米脱藩浪士)· 所郁太郎 (美濃国の医者 遊撃隊軍監)· 高橋熊太郎 (水戸脱藩浪士 遊撃隊参謀)征長軍総督府朝廷および幕府より長州征討を命じられ、西国を中心に三十五藩の藩兵により構成された討伐軍。 総督は尾張藩主徳川慶勝で、広島を本営とし長州征討に関する全権を委任されていた。 副総督は越前藩主松平茂昭で、小倉を本営とし九州諸藩を統括した。 総勢十五万人という大連合軍であるが、幕閣と総督の意思疎通すら出来ておらず、動員された諸藩の士気も低かった。· 徳川慶勝 (尾張藩藩主 征長軍総督 広島を本営とする)· 成瀬正肥 (尾張藩附家老 総督名代)· 長谷川敬 (尾張藩士 巡見使の一人)· 永井尚志 (江戸幕府大目付・若年寄 広島征長軍帯同)· 戸川安愛 (江戸幕府目付 広島征長軍帯同)· 松平茂昭 (越前藩藩主・征長軍副総督 九州諸藩統括 小倉に在する)· 若井鍬吉 (尾張藩士 小倉に在した広島本営との連絡役)福岡藩征長軍の一員。 福岡藩には多くの攘夷志士がおり、その筆頭である加藤司書は福岡藩の執政に任じられ、藩主黒田長溥も尊王攘夷派と目されていた。 そのため長州正義派は、福岡藩攘夷派を筑前正義派と呼び身内扱いしていた。 福岡藩攘夷派も、攘夷を実行した長州を高く評価し、かつ内戦を無益と考え戦争回避と長州藩の赦免に積極的に関与し、また諸隊の状況に同情し長州内の内戦回避にも尽力した。· 加藤司書 (福岡藩執政)· 月形洗蔵 (福岡藩士)· 喜多岡勇平 (福岡藩士)· 筑紫衛 (福岡藩士)· 建部武彦 (福岡藩士)· 早川養敬 (福岡藩医)薩摩藩征長軍の一員。 薩摩藩は禁門の変で長州撃退の功績があったため、征長軍で大きな発言力を持っていた。 長州藩は敵となった薩摩を薩賊と呼び激しく憎んでいた。 禁門の変では長州と相対した薩摩ではあるが、先年薩英戦争があり、外国勢力が日本に迫る時に内戦は無益であるとの認識から長州征討回避に動く。とくに西郷隆盛は征長軍総督慶勝の信任を得て戦争回避の交渉を取り仕切った。 また薩摩藩は藩命として長州内の内戦回避にも尽力したと言われる。· 西郷隆盛 (薩摩藩士 征長軍における薩摩藩代表)· 高崎五六 (薩摩藩士)了