「大岡氏一族の群像」大岡忠政。 川村一彦
5、「大岡 忠政」(おおおか ただまさ)は安土桃山時代の武将。江戸幕府旗本。大岡忠勝の三男。相模国高座郡の領主。父・大岡忠勝の代に松平氏に仕え、大岡忠政は徳川氏に仕えた。長兄・忠祐、次兄・忠次ともに、先に亡くなったため忠政が世子となり、通称を忠四郎から大岡家代々の名乗りである忠右衛門に改め、大岡家の家督を継ぐ。文禄3年(1594年)には兄たちの跡を追うように父・忠勝も亡くなった。徳川家康に仕え、元亀3年(1573年)の三方ヶ原の戦い、次いで天正3年(1575年)5月の長篠の戦いなどに参戦した。その戦功により、家康の関東移封後の翌年天正19年(1591年)5月、相模国高座郡堤村に200石を知行する領主となり、本領の三河から移り、堤に陣屋を構えた。慶長⒉年(1597年)同郡、大曲村に220石を加増される。更に慶長8年(1603年)同郡、高田村に160余石を加増された。 慶長16年(1611年)、亡父・忠勝を弔うために柴田勝家の子といわれる芹沢村の来迎寺住職であった深誉円察に開山させ、堤村の神明谷に浄見寺を創建し、ここに父忠勝を葬る。寛永6年(1629年)、享年82。戒名「頂源院専誉浄西」。「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)は、元亀3年12月22日(1573年1月1月25日)に、遠江国敷知郡の三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)で起こった武田信玄と徳川家康・織田信長の間で行われた戦い。信長包囲網に参加すべく上洛の途上にあった信玄率いる武田軍を徳川・織田の連合軍が迎え撃ったが敗退した。戦国期に甲斐国の武田氏は信濃侵攻を行い領国を拡大し、越後の上杉氏と対決していたが、永禄4年の川中島の戦いを契機に方針を転換し、それまで同盟国であった駿河国の今川領国への侵攻を開始する(駿河侵攻)。また、桶狭間の戦いにおいて今川氏当主の義元が尾張国の織田信長に討ち取られると、今川氏に臣従していた三河国の松平元康(徳川家康)は三河において織田氏と同盟関係を結び独立した。駿河侵攻により武田氏は駿河において三河の徳川氏や今川氏の同盟国であった相模国の北条氏に挟撃される形となる。やがて武田氏は北条氏を退けて今川領国を確保し、徳川領国である三河・遠江方面への侵攻を開始する。武田氏の侵攻に対して徳川氏は同盟関係にある織田氏の後援を受け、東海地域においては武田氏と織田・徳川勢の対決が推移する。元亀⒉年(1571年)、室町幕府15代将軍・足利義昭は織田信長討伐令を出し(第二次信長包囲網)、それに応える形で信玄は翌元亀3年に徳川領国である遠江国・三河国に侵攻を行う(ただし、武田氏と織田氏は同盟関係は維持していたため、当初織田氏は徳川氏に援軍を送らなかった)。同年末には北条氏康の死をきっかけに北条氏は武田氏と和睦して甲相同盟が復活し、後顧の憂いを絶った信玄は、翌元亀3年に西上作戦を開始する。西上作戦元亀3年(1572年)、武田軍は兵を3つの隊に分けて、遠江国・三河国・美濃国への同時侵攻を開始した。山県昌景は、『当代記』によれば秋山虎繁とともに別働隊を率いて信濃から三河へ侵攻したという。軍勢は5000人とされる。⒐月29日、信濃国・諏訪より東三河に侵攻、徳川氏の支城・武節城の攻略を初めとして南進。東三河の重要な支城である長篠城を攻略した後、遠江国に侵攻。秋山虎繁(信友)は、信濃国大島城(長野県下伊那郡松川町)の城代で、「下伊那郡司」として信濃下伊那郡から美濃・三河・遠江方面の軍事・外交を担っていた。『当代記』によれば、秋山は山県隊とともにほぼ同時に居城・高遠城より岩村遠山氏の領地を通って、徳川氏の本拠地の三河へ攻め込もうとしたため岩村遠山氏と徳川氏との連合軍との間で上村合戦が勃発した。秋山隊の軍勢は2500人とされる。秋山隊の勢いに押された徳川方は殆んど戦わずして退却した。秋山隊は、織田方の岩村遠山氏の主要拠点・岩村城を包囲(事実上の織田氏との同盟破棄)山県隊と。11月初旬に攻略。武田信玄率いる2万2,000人の本隊(うち北条氏の援軍2000人)は10月3日、甲府より出陣し、山県隊と同じく諏訪へ迂回した後、青崩峠から遠江国に侵攻。途中、犬居城で馬場信春隊5,000人を別働隊として西の只来城に向かわせて別れ、南進して要所・二俣城へ向かう。総計3万人の軍勢は、当時の武田氏の最大動員兵力であった。本来小さな支城1つ落とすのにも1ヶ月近くかかるところを、平均3日で陥落させていった。一方の徳川氏の動員兵力は最大でも1万5,000人ほどに過ぎず、しかも三河国に山県隊が侵攻していたため、遠江国防衛のためには実際には8,000人余しか動員できなかった。さらに盟友の織田氏は、いわゆる信長包囲網に参加した近畿の各勢力との戦いの最中であった。