『武田信玄の群像」遠江・三河侵攻と甲相同盟。 川村一彦
その後武田軍は甲斐に撤退した。この戦いで武田方では西上野の箕輪城代・浅利信種が戦死し、信種戦死後に箕輪城代は浅利氏から内藤昌秀・昌月親子に交代している。 自刃にまつわる伝説 この合戦では、双方の軍の武士の自刃にまつわる、似たような複数の逸話が残されている。 武田軍の武士の一部が甲斐国に撤退する際に北条軍から追い討ちを受け、落ち伸びるべく山中を甲斐国へと向かっていた。しかし彼らは、甲斐国への道中では見えるはずのない海を見る(峠から甲斐方面と海とは逆方向であり、近辺の海といえば相模湾である)。これは彼らの見間違いで、村の蕎麦畑の白い花が海に見えただけであったのだが、道を誤り敵国へ深く踏み込んでしまったと思った彼らはその場で自刃してしまった。 以来、自刃を悼んだ村の人々は蕎麦を作ることをしないのだという。 また、同様の伝説は北条軍側にも残されている。 戦いに敗れた北条軍の落ち武者が山中を逃げていた最中、トウモロコシを収穫した後の茎を武田軍の槍のひしめき合う様と見間違え、逃げる術のないことを悟り自刃した。自刃した落ち武者を供養するため、この土地ではトウモロコシを作らないという。 またこの地では合戦の死者の怨霊伝説が広く語り継がれ、近隣で三増峠の戦いに付随した戦いがあったといわれているヤビツ峠では餓鬼憑きの伝説が残っている。 合戦の評価 高低差が大きく作用した戦国最大規模の山岳戦として知られている。 従来、『甲陽軍鑑』に依拠した武田家主観による評価がされてきた。本稿でも合戦の経過など、概ね『甲陽軍鑑』に基づいた記述がされている。『北条五代記』などの北条側の史料では、北条軍の敗戦ではあるものの損害は軽微(20〜30程度)だったと書かれている。北条氏照は戦後、この合戦に勝利したという書状を上杉家に出している。 また、この戦いで古河公方家の重臣である豊前山城守が戦死しており、北条氏康から未亡人に宛てた書状が現存している。 この合戦だけ見れば、撤退の過程で偶発的に起こった部分的な戦闘に過ぎない。追撃する北条軍は撃退したものの、家中の有力武将である浅利信種が戦死するなど、勝者である武田軍にとっても失ったものは大きかった。 『甲陽軍鑑』でも著者とされる高坂昌信が、この合戦のことを「御かちなされて御けがなり(勝利はしたものの、損害も蒙った)」と論評し、本拠地甲斐を留守にしてまで行った遠征の必要性に疑問を呈している。 ただ、信玄の北条領侵攻の本来の目的は、駿河侵攻における優位性を獲得するためにあった。 歴史学者の柴辻俊六は信玄の小田原攻撃について、越相同盟への揺さぶりと共に、関東の反北条勢力への示威活動であった可能性をも指摘している。 事実、北条家と越相同盟を締結したばかりの上杉謙信は、同盟の締結条件に、武田軍牽制のための8月15日以前の上杉軍の信濃出兵があり、それに対し謙信は血判誓詞をもって了承していたにも関わらず、信濃出兵を果たさなかった。これは謙信の越中戦線の事情のほか、将軍義昭から武田氏との和睦を命じられて7月下旬に成立していた「甲越和与」があった。そのために謙信は、信濃に出兵するつもりであったが延期する旨を家臣の鮎川盛長に送っている。 信玄は「甲越和与」により、謙信の北条氏救援のための出兵がないことを踏まえた上での侵攻であったわけである。 上杉氏に、北条氏側は約定催促、不履行による詰問の書状、不信・不満を表した書状を送っている。このことから、武田軍による小田原城攻撃から三増峠のこの合戦に至るまでの戦いは、この2年後に北条家が上杉家と手を切り、武田家と再同盟する遠因ともなったとも考えられている。Ø うした対応策から後北条氏は上杉・武田との関係回復に方針を転じ、同年末には再び駿河侵攻を行い、駿府を掌握した。Ø また、永禄年間に下野宇都宮氏の家臣益子勝宗と親交を深めていた。勝宗が信玄による西上野侵攻に呼応して出兵し、軍功を上げると信玄は勝宗に感状を贈っている。 9「遠江・三河侵攻と甲相同盟」Ø 永禄11年(1568年)9月、将軍足利義昭を奉じて織田信長が上洛を果たした。ところが信長と義昭はやがて対立し、義昭は信長を滅ぼすべく、信玄やその他の大名に信長討伐の御内書を発送する。Ø 信玄も信長の勢力拡大を危惧したため、元亀2年(1571年)2月、信長の盟友である徳川家康を討つべく、大規模な遠江・三河侵攻を行う。Ø 信玄は同年5月までに小山城、足助城、田峯城、野田城、二連木城を落としたが、信玄が血を吐いたため甲斐に帰還した。