カテゴリ:歴史ウォーキング岐阜
いよいよメインの郡上八幡城に向かいます。 といっても、お城は八幡山の頂上にあり、岐阜城のようなロープウェイがあるわけではありませんので、歩いて上がります。 城山遊歩道の途中にある公園に"山内一豊・千代の銅像"がありました。何故ここに山内一豊と千代の銅像が立っているのかわかりませんでした。 そこで、郡上八幡城にまつわる歴史を紐解いていきます。城山の静けさの中で戦国武将に思いをはせ歴史をひもとく、この楽しさにはまっている"うさ-G"であります。 【山内一豊と千代の銅像】 戦国時代の1559年、遠藤盛数によって砦が築かれたのが郡上八幡城の始まりです。 山内一豊の妻千代は1556年 この遠藤盛数の長女として生まれました。千代が6歳の時に父盛数は病死、その後母の再婚、義父の敗北そして流浪と、千代の波乱の人生が始まります。 やがて千代は尾張の山内一豊と出会い、一豊の許へ嫁ぐことになります。 2006年 NHK大河ドラマ「功名が辻」で仲間 由紀恵が演じました。 【郡上八幡城】 町を見下ろす山の頂きにある白亜の天守閣って感じですね。 訪れた日は3月13日、二日前に降った雪がまだ残っていました。 郡上八幡城は、その後稲葉貞通、遠藤慶隆の興亡を経て大普請され、1667年6代城主遠藤常友の修復によって、幕府から城郭として格上げされました。 1755年大規模な農民一揆がおこり、12代城主金森頼錦はお家断絶に追い込まれてしまいます。この一揆はわが国の歴史上最も壮絶な一揆といわれています。 金森氏に代わって、1759年に丹後の宮津から転封した青山幸道は城下の殿町に居館を築き、旧二の丸は本丸、旧本丸は桜の丸、松の丸に改められました。 そして明治4年(1871年)廃藩置県とともに廃城となった城は、翌年から石垣を残してすべて取り壊されました。 優雅な破風をもつ現在の4層5階の天守閣は、昭和8年に大垣城を参考に模擬天守閣として、2つの隅櫓と高塀とともに全国にさきがけて再建されました。 日本最古の再建城として年月を経た木造の城内は大胆な吹き抜けの構造や急な階段にその趣きを感じさせ、白亜の外観は、城下のどこから眺めても見事にその構図の中心におさまります。 再建された城でありながら、司馬遼太郎氏はその著である「街道をゆく」の中で「日本で最も美しい山城であり、隠国(こもりく)の城。」と評されるに至っています。 ※隠国とは奥深い山間に隠れた地のこと 天守台の石垣のほとんどの部分は、1588年ごろに稲葉貞通の大改修の際に築かれたもので、戦国時代の荒々しさを偲ばせる野面積と呼ばれる工法によるものだそうです。 昭和30年に天守台すべての石垣が岐阜県の史跡文化財の指定をうけています。 天守閣に上れば重なり合うような奥美濃の山々のうねりと、狭い盆地にびっしりと軒を連ねる城下の家並みが見事な眺めを見せます。 町の中央を流れる吉田川の瀬音がこの山頂まで届いたといわれています。
『天守閣建造は険しい山頂の地形から当時の土木技術ではたいへん困難な工事でした。特に土台となる石垣の構築はたび重なる崩壊があった、と伝えられます。 そんな折、 栗巣村(現在の大和町)から切り出して運んだ天守閣の主柱となる檜の巨材が神路村(現在の大和町)までさしかかると急に動かなくなりました。村人総出で木を曳く作業にあたりましたが、その中にいたおよしという娘が手を添えると不思議と木は動き、とうとうおよしは木を曳く人夫や村人たちといっしょに城の築造現場まで来てしまいました。 その頃、石垣の崩壊に頭を悩ませた普請奉行は当時の慣習であった人柱を決め、そのおよしに白羽の矢が立ちました。 里の小町といわれた当時19才のおよしは白のりんずの振袖に白の献上の帯をしめ、城山の露と消えたと伝えられます。』 そして、町の子供たちは城の石垣に向かって「およし、およし」と声をかけながら手をたたくと、そのこだまがおよしの泣き声に聞こえる場所があるといいます。
郡上八幡城における450年余りの壮絶な歴史を感じる旅となりました。
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Last updated
2015/04/21 05:33:14 PM
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