カテゴリ:歴史ウォーキング岐阜
石畳の坂道を上がっていくと 本丸の入口にある本丸門があります。 その手前で入場券550円を払って入ります。そうそう、ちなみに平成の大修理が終わった姫路城の入場料は1,000円に値上がりしましたが、全国のお城の中では断トツに高いですね。さすが世界遺産というところですが、それだけの価値はあると思います。 1537年織田信長の叔父、織田信康によって木之下城より城郭を移して築いたといわれています。木曽川沿いの小高い山の上に建てられた「後堅固(うしろけんご)の城」で、以後、中仙道と木曽街道に通じ、木曽川による交易、政治、経済の要衝として、戦国時代の攻防の要となりました。 正面から見た天守ですが、ほんとうに美しく落ち着きのあるお城だと思います。 1547年になると、その織田信康は、織田信秀が美濃の斉藤氏を攻めた「稲葉山城攻め」に出陣し死去してしまいます。そのため、その子織田信清が城主となるのですが、織田信長に反抗したため攻められ、織田信長の家臣で乳兄弟、池田恒興(いけだつねおき)が入城しました。 1582年「本能寺の変」で織田信長が倒れて後継者争いで世の中は乱れ、1584年に秀吉対徳川家康・織田信雄(のぶかつ)(織田信長の次男)との間で「小牧・長久手の戦い」が始まりました。当時の犬山城主は織田信雄の家臣中川定成でしたが伊勢へいって不在であり、池田恒興が木曽川をわたり城内に侵入し、落城しました。その後秀吉が入城し、小牧山城に陣を構えた家康とにらみあいが続くことになりますが、のちに両者の間で和が結ばれ、犬山城は織田信雄に返還されることになります。 その後、犬山城主はめまぐるしく変わりましたが、関が原の合戦後は家康側の小笠原吉次が入城します。 昔のままのお城はこのように階段がとても急です。敵が責めてきたときに容易に上がれないようにしているのでしょうが、それにしてもこの角度はそうとうなものだと思います。 もちろん、大阪城のようにエレベーターはありません。 江戸時代に入り、1617年尾張徳川家の重臣成瀬正成(なるせまさなり)が犬山城を拝領。このとき改良が加えられ、現在の天守の姿ができたといわれています。以後、成瀬家が幕末まで城主を務めることになります。
急な階段を何回も上って、やっと天守閣に到着です。 どこのお城も天守閣からの眺めは素晴らしいです。 【木曽川と犬山橋】 【木曽川の向こうは岐阜県各務原市の町並み】 【本丸と犬山の町並み】 明治4年(1871)廃藩置県で愛知県の所有となり、天守以外のほとんどの建物が取り壊されました。 また、明治24年(1891)、マグニチュード8.4の「濃尾大地震」によって天守が半壊するという大きな被害に会いました。そのため、同28年に修理を条件として県から旧藩主の成瀬家に譲与され、成瀬家と犬山町民が義援金を募り、無事修復されたということです。 もし、成瀬家や犬山町民が断っていたら、愛知県は半壊の状態の天守をそのまま取り壊していた、ということもありえたわけですよね。 そして、昭和10年国宝に指定され、昭和27年に国宝に再指定されました。昭和40年(1965)解体修理が完了。長い間、全国唯一の個人所有の城として保存されてきましたが、平成16年に「財団法人犬山城白帝文庫」の所有となって現在に至っています。 このように、美しく見える犬山城ですが、500年近くの間幾多の歴史の荒波を乗り越えながら、犬山の町とそこで暮らす人々を見守り続けてきたということですね。
《続く》
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Last updated
2015/04/30 06:43:47 PM
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