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私:羽柴(豊臣)秀吉(1537~98)が、家臣の武将、脇坂安治(1554~1626)に宛てた書状33通が見つかったという。 もともと、龍野藩脇坂家の初代、安治を祭る龍野神社(たつの市)が所蔵していたものだという。 東京大史料編纂所が修復・調査し、秀吉の祐筆の筆跡や朱印から本物と断定した。 「天下人」の書状がまとまって確認されるのは異例。 天下統一や朝鮮出兵の過程での細かな指示ぶりや叱責を飛ばしていた様子がうかがえるという。
A氏:書状は織田信長が本能寺の変(1582年)で倒れた後の約10年間分で、信長の次男・信雄や徳川家康と覇権を争った小牧・長久手の戦い(84年)や越中の佐々成政攻め(85年)、九州の島津攻め(86~87年)、朝鮮出兵時(92~94年)などに関する内容だという。
私:85年の書状は、2カ月で13通に及んだ。 正親町天皇が譲位後に住んだ京都の仙洞御所造営に使う材木の手配を伊賀で行うよう命じた脇坂安治に対し、越中出陣を望んだことや材木輸送の遅滞を再三叱責。 伊賀の統治についても安治に細かく指示し、統治がうまくいかなければ蒲生氏郷ら他の武将を派遣すると告げた。 追放した近臣の一人をかくまわないよう指示し、「信長の時代のようには甘くない」とすごみも利かせていた内容があるという。 伊賀は当時、自治の伝統が強かったので、信頼の厚い安治を派遣し、指示を再三与えたことから相当に気をつかっていたことがわかるという。
私:脇坂安治は、秀吉の木下藤吉郎時代に自ら望んで家臣となった武将で、藤吉郎時代からの秀吉の戦いにはすべて参加し勇将の名をあげている。
A氏:朝鮮出兵でも、「小西行長が釜山の海城を落としたと聞いたが、皆で攻めるよう申し渡したはず。早く合流して戦え」「しっかりと高麗国を治めよ」「普請などしっかり行え」と再三指示していた。 「3月に渡海するから待っていろ」「来春(中国の)明に渡る予定である」とも記し、秀吉本人が渡海予定だったことも改めてわかったという。
私:秀吉は本当に明を攻撃するつもりだったんだね。 「しつこいぐらいに細かい秀吉の性格がわかり、子飼いの武将だった安治との親密さもうかがえる」という。
書状は2月26日から4月10日まで、兵庫県たつの市立龍野歴史文化資料館で一般公開されている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2016.01.30 06:27:44
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