こんなコンサートに行った~マーツァル指揮チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
世界一のオーケストラを聴いてきた。クラシック音楽を聴き始めて40年近くになる。1980年代までは札幌にやってくる外国のオーケストラは年に数団体と少なかったが、コンスタントに聴き続けているといつのまにか世界の主要オーケストラのほとんどに接した。まだ聴いたことのないオーケストラを数えた方がはやい。アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、バンベルク交響楽団、北ドイツ放送交響楽団、ニューヨーク・フィル、イスラエル・フィル、ミラノ・スカラ座管弦楽団・・・という条件付きで言うのだが、今回、チェコ・フィルを聴いて、チェコ・フィルこそ世界一のオーケストラであり、日本のオーケストラがこのレベルに到達するにはあと100年か200年、いや、ひょっとすると永遠に不可能かもしれないと思った。チェコ・フィルを聴くのは初めてではない。しかし、以前に聴いたときは、いいオーケストラだとは思ったものの、ここまで感心=感動はしなかった。それはたぶん、音楽そのものの高揚や指揮者の解釈に耳を奪われていたせいだと思う。ところが今回はスメタナの連作交響詩「わが祖国」という単純な仕組みの音楽だったためか、オーケストラのアンサンブルや音色をリラックスして気楽に聴くことができた。そういう余裕を持って聴いたせいか、以前気がつかなかったことに気づき、「チェコ・フィルこそ世界一のオーケストラ」という確信を持ったのだった。世界一だと思ったのは、どの点においてか。ウィーン・フィルはじめ世界中のオーケストラに優秀な弦楽器奏者を供給している「弦の国」のオーケストラだけあって、弦楽器の音色はたしかに美しい。しかし、ボストン交響楽団やフィラデルフィア管弦楽団などチェコ・フィルより美しい弦楽セクションを持つオーケストラはほかにもある。ミスの少なさなど、いわゆる技術的な面はどうか。ウィーン・フィルよりはうまいが、ソリスト級の名人ぞろいのベルリン・フィルやアメリカのメジャー・オーケストラには及ばないと思う。フランスのオーケストラのような色彩感、イギリスのオーケストラのような闊達で流暢な表現力も、チェコ・フィルにはない。しかしチェコ・フィルは、ひとりひとりのメンバーが最高の室内楽奏者の能力を持ち、自分の音が、複雑なオーケストラ・スコアの中にあってどういう意味を持っているかを完璧に判断して演奏しているのがわかる。言ってみれば、拡大された室内楽としてのオーケストラの理想的なアンサンブルが繰り広げられていたのである。指揮者がいちいちキューを出さなくても、お互いの音を聴きあっているため、バランスや音程やアンサンブルが完璧で音楽的なのだ。バランスを失した刺激的なフォルテのないオーケストラの響きとはこんなに充実し感興に満ちたものだったのかと驚いたし、センセーショナルなところのまったくない音楽の豊かさに魅了された。すべてのパートに感心したが、とりわけ感心したのはティンパニ奏者とホルン・セクション。あんなにディミニエンドの上手なティンパニは聴いたことがないし、遠く離れたセクションの音を絶妙なバランスとタイミングで引き継ぐホルンも初めてだ。楽員ひとりひとりが室内楽奏者の精神を持っているオーケストラというと、オペラのオーケストラ、特にウィーン・フィルが思い浮かぶ。しかし、ウィーン・フィルには、どこかプライドというか自分たちの音楽が正統だというような奢りを感じることが多い。はっきり言って嫌いだ。しかしチェコ・フィルの演奏にはそういう要素がまったくない。謙虚に音楽に向かい、作曲家の内心の声に耳を傾け、ていねいに音にしている誠実さと素朴さを感じる。これは、チェコという国と国民性、すなわち、1968年にはソ連軍の戦車を花束で迎え、1990年にはあのビロード革命をなしとげた人々の国のオーケストラであることとは無関係ではないだろう。カレル・コシークの哲学、ミラン・クンデラの文学、そして素晴らしい人形劇や絵本やアニメーションの数々・・・これらは、同じ精神の源から発しているものであり、チェコ・フィルはそれらと同じ響きを奏でている。チェコ・フィルは、今夜も地球のどこかであの「人間の顔をした音楽」を奏でていることだろう。そう思うと、心がポカポカと温かくなる。