カテゴリ:【幻】 -第1幕-
洒落た模様が描かれたカップを、ソーサーの上から取り上げた。ゆっくりと口元に近づけると、淡い芳香が鼻を擽るのに、思わず睦月は笑み零れる。
ようやく一息つけた。 夢の中でようやく、とはおかしな話である。だが、言葉に表すならばこれしかない。 叔父から逃げるように墓地を去った後、今日何をしたかをよく睦月は覚えていなかった。笑えていた、とは思う。いつもと変わらない行動を取れたとも。無意識にでも取り繕えた自身に、自嘲するしかない。 「大人しいですね。まぁ、静かでいいですが」 唐突に話を切り出した男に、睦月は眼を瞬かせた。そのまま首を少々右に傾ける。一体何のことだろう。 睦月は基本的におっとりした性格と言えた。男と対面して茶を啜るのも、もう幾度となる。男が喋り、睦月は聞きながら相づちをうったり、疑問を投げかける、というのが常の茶会だ。 (何をお兄さんは言いたいんだろう?) 「言ったでしょう? 『文句なら、また今度聞いてあげますよ』と。早速色々騒いでくれるかと思ってましたから。‘あれ’について、耳障りなほど、ね」 --あの血まみれの夢。 睦月は思いだし、自然と顔が強張るのを感じた。思い起こすだけで、血の固まりを叩きつけられたようだ。喉の奥に絡みつくような匂いが蘇ってくる。 「……気になることは、ありますけど……………所詮夢ですし」 (何より……思い出したくない) --あれは、思い出してはいけないものだ。 直感だが、躰が、頭がそう叫んでいる。思い出した瞬間、何かが壊れてしまう。そう思えてきてしかたがないのだ。ならば、忘れてしまったほうがいい。何を失ってしまうか、わからないのなら。 男はきっと、睦月の本音などわかっているのだろう。どこか呆れたような嘲笑を浮かべている。睦月自身も同感なので、文句はまったくないが。 (……それにしても…………何でお兄さんはわかるのかな?) 気が緩んでいるのだろうか。 睦月はこの空間では、この空間だけでは素でいられる。天城の家の中では言うまでもないが、友人の前でも近頃取り繕っている感があり、申し訳ないような気がしていた。心許せる幾人かの友人に、心配をかけたくない。その思いからであるはずだ。だが、どこかで知られたくないと言う思いもあるのも確かである。心の奥底では、不満などの負の感情で渦巻いている、と知られてしまうのが、恐い。それを受け止めてくれるとわかっていても、どうしても言えない。 だが、夢の中だけが素でいられると言うのもおかしな話だ。 男と初めて出会ったのは、中学校に上がってしばらくしてだ。夢にいきなり、当然のように出てきて、夢の主導権を全て奪っていった。今まではぼんやりと様々な夢をみてきたが、男が現れてからは彼ばかりの夢を見るようになってしまったのだ。 『おやおや。まさか君と対面するとは……まぁいい。暇つぶしぐらいにはなるでしょう』 その妙な言葉が、初対面の言葉だった。 男は会うたび、違う名を名乗った。楽しげに、しかも困惑している睦月を見て嗤っていたので、意図的であろう。 『………どれが本当の名前なの?』 『どれも本当です。嘘はついてませんよ。どれも過去、僕が名乗ってきた名前です』 にこやか-どこか作り物めいていたが-に笑って言うのものだから、睦月は勝手に『お兄さん』と呼ぶことにしたのである。 (………あれ以来の付き合いだからわかるのかな?) だが、そもそもそれがおかしい、とはたと睦月は気が付く。 『お兄さん』は夢の中でしか現れない存在だ。つまり、夢の中の住人にすぎない。睦月が創りだした存在、と言い換えてもいいのかもしれない。ということは、睦月が考えていることなどお見通しだとしても、なんら不思議はないのだ。 だが、それにしては、どうだろう。自身が生み出した存在だというのに、彼は好き勝手ばかりしている。以前、ぽつりと文句を言ったら、可笑しいと言わんばかりに嘲い、断言された。 『………お兄さんは何で私が創った、夢の住人なのに…私より偉そうで、強いかなぁ』 『何を言っているのですか。僕が君‘何か’の創造物なわけないでしょう。君と僕の魂は別物ですよ。そもそも僕と君が同等なわけ、ないでしょうが。僕から見れば、君は赤子同然。一緒にされては困りますね』 思い出してしまい、思わず顔を顰める。うんうん呻りがなら悩みだした睦月に呆れたような視線を向けながら、男は紅茶を飲み干した。 「まあ、そういうことにしておいてあげましょう。今日、あなたは珍しく褒めるに値することをしたので」 「…………?」 「今日はよく即答しましたね。あなたにしてはよくできましたよ」 いつもと変わらない表情で、実に素っ気ない声音で言われたので、まったく褒められている感じはなかった。いつものことなので、睦月は特に不快には思わない。むしろ、何のことを指して言っているんだろう、と首を傾げていた。 「えっと………何のこと?」 「海外への、あの馬鹿から逃れられるチャンスを、よく棒に振りました」 馬鹿、とは正義のことだ。何故男が正義のことをそう言うのか知らないが、何度訂正しても効果はなかったので、もう好きに言わせている。睦月さえ口を噤んでいれば本人や他者に知られることはないからだ。考えたくないことだが、男と正義が対面することになれば、本人を目の前でも平然と言い放つだろうが。 「君が何をしようが、私には一切関係ありませんが……ですが、縋ろうとしたのを振り切って『この地』に留まろうとしたことは褒めてあげましょう。貴方にしては、珍しく僕にとって都合のよいことをしてくれましたから」 褒められているようには、一切聞こえない。むしろ、聞く人によっては馬鹿にされているような気さえする声音だ。睦月はだが怒りという感情は一切湧かず、むしろ首を傾げていた。 (あれ?……どうしたのかな、お兄さん) おかしな話なのだ。 男が微かに微笑んだり、機嫌がいいときことは、はっきり言って男が『唯一の人』と称する人物の話を聞かせてくれる時だけである。それ以外にももちろん、微笑をするが、どうも心から笑っているようには到底見えないのである。 (………いや、確か……私が天城家のみんなに気を遣っていることを知ったときとか、お兄さんは面白そうに笑ったっけ。『おかしな子ですね』と) 珍獣を見るような眼ではあったが。笑うと言っても、楽しい、というより可笑しい、と言った感じだが。面白いというツボが、若干一般人と違う気もするが。 笑う、は例外はあるにしろ、だが男が睦月を褒めることはなかった。睦月が男曰く『褒めるに値する』ことを、単に行わなかっただけかもしれないが。 (どうして、かな?) そう思い、改めて睦月は男を眺めた。男ははっきり言って、睦月からすれば捉えどころのない存在である。男はポーカーフェイスはお手の物であり、話術に長け、決して睦月に本心を探らせない。海千山千の存在だ。 だが、何だかんだ言っても、睦月はもう4年ほど毎日男と顔を合わせ、会話をしている。具体的な理由は特に上げられないが、直感めいた閃きがあった。 「………ねぇ?お兄さん」 「何ですか?」 「今日、何か…機嫌いい? ひょっとして」 「ええ。機嫌はいいですよ。とてもね」 男の口の端が緩く上がり、眼が細められる。珍しい、純粋で綺麗な微笑みだ。睦月は思わず眼を瞬かせた。それだけお目にかかる機会がない微笑なのだ。 「藍閃【ランセン】にもうすぐ会えるんです……機嫌が悪くなるはず、ないでしょう?」 --藍閃 その言葉が耳に届いた瞬間、同時に硝子を床に叩きつけたような音がした。その音に睦月は思わず身を強張らせ、眼を強く瞑った。 -------------- 字数制限に負けました 分割します お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年04月12日 23時30分01秒
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