カテゴリ:最近考えること
繋がるということについて考えてみました。繋がる、とは、連帯、共有、意思の伝達が可能になる状態がイメージできます。もともとの言葉の意味は、放れないようにする、とか結ぶということですから、自分と誰かあるいは何かの対象と放れないように、もしくは結ばれると言う意味です。 物と物をつなぐ、例えば端末にケーブルをつなぐ、と言う意味ではしっくりきますが、それが精神的な意味になったときに、意味不明になりそうです(笑)。 自分の感情のある部分(例えば、嬉しさ、悲しさ)が他人のその部分に結びついたときは、繋がった状態になると思います。今思い浮かんだのは、ロックコンサートでのあの一体感(爆)です。コンサートの場合には、演奏するロッカーが「のってるかーい?」と叫んで、聴衆が「イエー!」と叫び返す、そしてゴワーンと凄い音で演奏が始まり、追っかけの人たちはもうそこでしびれてしまいます。観客席で片腕をあげたり、踊っている人たちもまた、恍惚感でいっぱいになります。それをテレビとかビデオで見る私たちもまた酔いしれて・・・いわゆる感動の連鎖です。多分これが繋がった状態です。 上記の例ではちょっとした興奮状態ですが、静かな感動もありだと思います。ただ繋がる、と言う状態は、こちらが一方的に受身になっている場合には難しいと思います。映画の場合は、観客はスクリーンに投じられる作品を通して感動しますが、感きわまってすすり泣く場面になっても、隣の人とつながっているとは言いがたい状況です。そこには何か繋がるためのワンクッション、あるいはちょっとした起爆剤(ロックコンサートであれば、ロッカーの叫び声とか問いかけ)が必要です。これは多くの人たちとつながる例ですが、一人対一人の場合には、コミュニケーションが必要です。自分が思うことをそのまま相手に感じてもらうには、ちょっとした霊的な直観力(=テレパシー)を持っているとか(笑)、かなり親密な関係であることが前提となります。しかも、自分が繋がりたい、と思うのであれば、自分から問いかけ、あるいは意思表示といったアクションが必要です。 と、ここまではかなり常識的な内容でした。少し抽象的な領域に入ります。例えば、道端に咲いていた一輪の花を愛でるという行為があります。このとき、花と自分の関係はどうでしょうか。ペットと遊ぶときや撫でているときの、ペットと自分の関係はどうでしょうか。満天の星を見上げたとき、ふと「何か」を感じたようなとき、そのときの星と自分の関係は?外を歩きながら風の中に春の気配を感じたとき、その空気と自分は?これらもまた繋がっている状態とはいえないでしょうか。いや、そんなもの、たまたま自分の周りの環境に自分が気がついただけだ、といってしまえばおしまいですが、ただ気がつくだけではなく、花を愛でると癒される、ペットの可愛さに微笑む、春の気配にわくわくする、星を見たときになぜか懐かしい感じがする、という感情がわいてくるのは、やはり自分の周りにある花、ペット、星これらが自分にとって特別な存在であることを意味すると思います。 何か行動を通して繋がるときには、自分が主体となるか、媒体要因が必要でした。しかし静かなつながり、上記のような場合には、主体となる自分はむしろ邪魔かもしれません。 自分がある感情を持つ、ということは、何かしらそこにその感情を誘発する要因があるということです。自分を1回空にしてみたと想定して、その空の自分の感情を誘発してくれるものがあったら、その感情を通して、空の自分とその誘発してくれたものは繋がったと言えると思います。素直になって初めて感動とか、気づきは訪れるような気がします。道を歩きながら、今日は感動する花を探そう、とか、何かわくわくすることを見つけよう、と構えてしまうと意外にその対象は見つかりづらいものです。肩の力を抜いて、自分の殻を脱ぎ捨てて、感じるままに一日を過ごしてみると、いろいろなつながりを感じることができそうです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
March 8, 2006 10:45:31 PM
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