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テーマ:今日のこと★☆(105747)
カテゴリ:物の見方考え方
良寛に妻が存在したことが、元新潟大教授の研究によって明らかになった(9月17日報道)ことには、いささか驚かれた方もおられよう。
しかし、一休や親鸞、日蓮など代表的な仏師、聖人においても妻帯したり、淫蕩な生活を送ったり、酒を好んだりという人間らしい一面はあったわけだ。 良寛禅師も酒を大いに楽しみ、女性と関係があったことは推察されてきた。その奔放な人間らしさは詩や短歌に出てくる。実際は出家前に妻とは離婚しているとのことだが。 親鸞も布教の先々で女性と結び、その子孫が真宗の今の基盤となったことは知られている。 一休禅師は、頓知の小坊主としての伝説が中心に伝わっているが、修行僧の時代には酒色におぼれ、聖人ぶる二重人格的な僧侶を批判している。その時に詠った詩は、後に大徳寺の高僧になる一休とは同一人とは信じられないほどだ。盲目の女性と恋に陥っていることは自ら認めている。 日蓮についていえば、信者に宛てた手紙が多く残されているが、そのなかに酒を贈られたことへの感謝を伝える文がいくつもあり、般若湯として寒冷地での修行や布教活動には大いに役立ったことであろう。 深い信仰の部分が分からないと、一概に非聖人らしさを責めるわけにはいかないのであろう。かつて、奈良の興福寺や京の北野神社が酒造権を握って様々な抗争を起したり、中世の修道院でワイン造りが行なわれ、収入源となるとともに修道士の愉楽に供されたことを思えば、良寛など仏師の行動は正直であったのだ。 むしろ僧とて煩悩を体験し、そこから衆生の目線で悩みを実感し、教えを説く、そういう姿勢は、上から権威的に律するよりも素晴らしく思える。最近のローマ法王の舌禍を不幸に思いながら、良寛の庶民性に宗教の原点をみた。 高邁な思想もよいが、どれだけ他人の幸せの為に影響を与えられるか、で伝教者の価値が決まるように思う。 ★良寛の歌 ほろ酔ひの足もと軽し春の風 さすたけの君とあひ見てけふは酔ひぬ この世になにか思ひ残さむ ひさかたののどけき空に酔ひ伏せば 夢も妙なり花の木の下 さけさけと花にあるじを任せられ 今日もさけさけ明日もさけさけ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年09月19日 23時51分59秒
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