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テーマ:本のある暮らし(3315)
カテゴリ:詩情俳趣
昭和10年代において新進作家の太宰や織田作の作品は、当時の文壇の大御所、志賀直哉や先輩作家から、軽佻浮薄、俗悪、人間冒涜などとの表現でこき下ろされ、認められなかった。
この志賀に対して二人は、終戦前後それぞれ自著で以下に紹介する文面のみるように批判し叛旗を翻したが、受け入れられるわけがなく、返り討ちに遭うなどするうちに、織田作は昭和22年、太宰は23年に相次いで亡くなるのである。 織田作は、志賀を初めとする心境的私小説を偏重する体制批判をしたが、一方太宰は志賀の描くのは芸術的気品ではなく成金趣味だと批判している。 そういえば、織田作の語るように、志賀直哉の短編を読んでも、端正だがロマンや大胆なドラマ性がなく、面白くない。 ●織田作之助『可能性の文学』(昭和21年12月発表の絶筆)より この手は将棋の定跡というオルソドックスに対する坂田の挑戦であった。将棋の盤面は八十一の桝という限界を持っているが、しかし、一歩の動かし方の違いは無数の変化を伴なって、その変化の可能性は、例えば一つの偶然が一人の人間の人生を変えてしまう可能性のように、無限大である。古来、無数の対局が行われたが、一つとして同じ棋譜は生れなかった。ちょうど、古来、無数の小説が書かれたが、一つとして同じ小説が書かれなかったのと同様である。しかし、この可能性に限界を与えるものがある。即ち、定跡というものであり、小説の約束というオルソドックスである。 悪意はなかったろうが、心境的私小説――例えば志賀直哉の小説を最高のものとする定説の権威が、必要以上に神聖視されると、もはや志賀直哉の文学を論ずるということは即ち志賀直哉礼讃論であるという従来の常識には、悪意なき罪が存在していたと、言わねばなるまい。 私などまだ六年の文壇経歴しかないが、その六年間、作品を発表するたびに悪評の的となり、現在もその状況は悪化する一方である。私の親戚のあわて者は、私の作品がどの新聞、雑誌を見ても、げす、悪達者、下品、職人根性、町人魂、俗悪、エロ、発疹チブス、害毒、人間冒涜、軽佻浮薄などという忌まわしい言葉で罵倒されているのを見て、… ●太宰治『津軽』(昭和19年発表)より 50年配の作家=志賀直哉 その日、蟹田の観瀾山で一緒にビールを飲んだ人たちも、たいていその五十年配の作家の心酔者らしく、私に対して、その作家の事ばかり質問するので、たうとう私も芭蕉翁の行脚の掟を破つて、そのやうな悪口を言ひ、言ひはじめたら次第に興奮して来て、それこそ眉をはね上げ口を曲げる結果になつて、貴族的なんて、へんなところで脱線してしまつた。 「僕の作品なんかは、滅茶苦茶だけれど、しかし僕は、大望を抱いてゐるんだ。その大望が重すぎて、よろめいてゐるのが僕の現在のこの姿だ。君たちには、だらしのない無智な薄汚い姿に見えるだらうが、しかし僕は本当の気品といふものを知つてゐる。松葉の形の干菓子を出したり、青磁の壺に水仙を投げ入れて見せたつて、僕はちつともそれを上品だとは思はない。成金趣味だよ、失敬だよ。本当の気品といふものは、真黒いどつしりした大きい岩に白菊一輪だ。土台に、むさい大きい岩が無くちや駄目なもんだ。それが本当の上品といふものだ。君たちなんか、まだ若いから、針金で支へられたカーネーションをコツプに投げいれたみたいな女学生くさいリリシズムを、芸術の気品だなんて思つてゐやがる。」 …… ・なお、太宰が芥川賞候補になって落選したときの選考委員の一人、川端康成が「作者(太宰)目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざるうらみあった」と批評したため、太宰は「川端康成へ」と題する短文を書いて抗議したこともある。 これに対して、川端は太宰には不遜を詫びてはいるし、志賀も太宰の死後に詫びている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年06月27日 00時39分58秒
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