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カテゴリ:詩情俳趣
『詩の力』(新潮文庫)を読んだのが2009年12月で、レビューに記した。逝去されたことを偲び、復習の意味で、あらためてここに掲載。ただ、彼の社会思想的な面は知らないし、知ろうとも思わない。(失礼)
詩論は高村光太郎、谷川俊太郎や西東三鬼、角川春樹、寺山修二、茨木のり子、俵万智から、美空ひばり、中島みゆき、松任谷由美、宇多田ヒカルなどの人気歌手の詩歌句までを取り上げていて興味深かった。 とくに吉本は諸作家の詩歌の特質を主に「思想性」や「主観と客観」「直喩と暗喩」の切り口で立て分けて論評していた。思想性のある作詩家としては、彼と同世代の田村隆一や谷川雁、鯉川信夫等を挙げていた。やはり戦争体験が影響している世代ではある。 吉本の文学に関する考え方は、以前NHKテレビでの、車椅子に座りながらコブシを振り上げての熱演を聴いたが、結論的には「思想性」と「読者大衆を惹きつけるエンターテイメント性」の両面が備わっているかであったと思う。これを「自己表出」と「指示表出」とか難しい言葉で語ったり、「純文学」と「大衆文学」と言い換えていた。 例えば、横光利一は『旅愁』において、この両面を書ける作家として評価されていた。この小説の後半はそれが駄目になったとも言ってたが、吉本の模範とするのは『カラマーゾフの兄弟』のドストエフスキーであったり、年齢とともに世界を深めていった夏目漱石だった。 浅学な自分にはあまり分らなかったが、本書『詩の力』を読んでこれは「思想性」と「エンターテイメント性」(着想、物語性などによる)という要素であることが分ってきた。 この見方からすれば、吉本は評価していないのかもしれないが、司馬遼太郎の『坂の上の雲』『竜馬がゆく』『翔ぶが如く』はこの両要素を満たしており、かくも国民的人気を博したのも肯けるのではなかろうか。 もう一つのテーマである「主観」と「客観」は詩、短歌、俳句において大きなな要素であることが改めて分った。それによって作品の内容、方向性が違ってくるし、評価も分かれるである。 俳句においても一句には客観と主観の両方が込められるのが常道だとし、角川春樹の句は主観、客観のどちらかだけの句が多いのが特徴と吉本はいう。また、寺山修二については短歌でフィクションを書いているのは前代未聞と吉本は評している。 余輩の好みからいえば、自然詠という客観が先ずあって、どことなくかそこはかとなくか、主観性が織り込まれた句のほうを採りたいし、難しいことであるが、そう努めたい。 短歌や俳句でも主観が勝ると、主張したことに自分は満足だろうが、自然とその主観とどんな関係があるのか他人には伝わらない。あくまでも自分のメモとして残し、発表しなければよいということになろうか。 なお、萩原朔太郎は『詩の原理』(昭和13年)において、主観と客観についても述べている。ざっくりいって、詩や短歌、音楽は主観であり、俳句や絵画は客観である、小説は内容によりどちらかにウエイトが傾くが、私小説は主観、ロマン小説(?)は客観であるとしている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年03月18日 00時30分52秒
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