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2009年06月20日
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6/16、17付けの読売新聞に『1Q84』に関する村上春樹氏のインタビューが掲載されていましたね。

以下、YOMIURI ONLINE(読売新聞)より
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月の裏に残されたような恐怖

 村上春樹氏(60)が作家生活30年を経て発表した長編『1Q84』(新潮社)は、現実から少しだけねじれた世界で進む物語だ。どのように発想され、どんなテーマが込められたのだろう。(尾崎真理子)

 村上(以下M) G・オーウェルの未来小説『1984』を土台に、近い過去を小説にしたいと以前から思っていた。もう一つ、オウム真理教事件がある。僕は地下鉄サリン事件の被害者60人以上から話を聞いて『アンダーグラウンド』にまとめ、続いてオウムの信者8人に聞いた話を『約束された場所で』に書いた。その後もできる限り東京地裁、東京高裁へ裁判の傍聴に通った。

 事件への憤りは消えないが、地下鉄サリン事件で一番多い8人を殺し逃亡した、林泰男死刑囚のことをもっと多く知りたいと思った。彼はふとした成り行きでオウムに入って、洗脳を受け殺人を犯した。日本の量刑、遺族の怒りや悲しみを考えれば死刑は妥当なのだろうと思うが、基本的に僕は死刑制度に反対だし、判決が出た時は重苦しい気持ちだった。ごく普通の、犯罪者性人格でもない人間がいろんな流れのままに重い罪を犯し、気がついたときにはいつ命が奪われるかわからない死刑囚になっていた――そんな月の裏側に一人残されていたような恐怖を自分のことのように想像しながら、その状況の意味を何年も考え続けた。それがこの物語の出発点になった。

現代のシステム

 ――完成した作品は、人間の気高さ、怖さを深く考えさせる。善悪とは、人を裁くとはどういうことか。裁判員制度が始まり、皆が再考中の時期でもある。

 M オウム事件は現代社会における「倫理」とは何かという、大きな問題をわれわれに突きつけた。オウムにかかわることは、両サイドの視点から現代の状況を洗い直すことでもあった。絶対に正しい意見、行動はこれだと、社会的倫理を一面的にとらえるのが非常に困難な時代だ。

 罪を犯す人と犯さない人とを隔てる壁は我々が考えているより薄い。仮説の中に現実があり、現実の中に仮説がある。体制の中に反体制があり、反体制の中に体制がある。そのような現代社会のシステム全体を小説にしたかった。ほぼすべての登場人物に名前を付け、一人ずつできるだけ丁寧に造形した。その誰が我々自身であってもおかしくないように。

新しいリアリズム

 ――作中の全員が傷を負い、陰を持つ。だがそれぞれ魅力的だ。月が二つ浮かび、超現実的な「リトル・ピープル」や「空気さなぎ」が現れても、映画やゲームでCG映像を見慣れた世代に違和感はなさそうだ。

 M 自分のいる世界が、本当の現実世界なのかどうか確信が持てなくなるのは、現代の典型的な心象ではないか。9・11のテロで、ツインタワーが作られた映像のように消滅した。あれだけあっけない崩壊を何度も映像で見せられているうちに、ふとした何かの流れで、あの建物がない奇妙な世界に自分は入り込んだのだと感じる人がいてもおかしくはない。G・ブッシュが再選されず、イラク戦争も起こらない、そんな別の世界がここではないどこかで続いているのかもしれないと。

 日本人は1995年にたてつづけに起きた阪神大震災とオウム事件で、「自分はなぜ、ここにいるんだろう?」という現実からの乖離(かいり)感を、世界よりひとあし早く体験した気もする。僕の小説は、『ノルウェイの森』を除いて、いわゆるリアリズムの小説ではないが、それゆえ新しいリアリズムとして、世界中で受け入れられ始めているのを感じる。9・11以降はとくに。

 同時に僕は、バルザックのような世俗そのものを書いた小説が好きで、この時代の世相全体を立体的に描く僕なりの「総合小説」を書きたかった。純文学というジャンルを超えて、様々なアプローチをとり、たくさん引き出しを確保して、今ある時代の空気の中に、人間の生命を埋め込めればと思った。

時間に耐え、育つ「物語」

 ――『1Q84』では学生運動から派生した集団が、政治的グループと自給自足団体に分裂し、後者がカルト教団へ変貌(へんぼう)する。背景には現代史の実際の出来事も浮かぶ。

 M 僕らの世代が1960年代後半以降、どのような道をたどってきたかを考えていくべきだという気持ちはあった。僕らの世代は結局、マルキシズムという対抗価値が生命力を失った地点から新たな物語を起こしていかなくてはならなかった。何がマルキシズムに代わる座標軸として有効か。模索する中でカルト宗教やニューエイジ的なものへの関心も高まった。「リトル・ピープル」はそのひとつの結果でもある。

読者への最大の謎

 ――山梨の森の中で教団リーダーの娘が見た「リトル・ピープル」とは? 読者に手渡される最大の謎だが。

 M 神話的なアイコン(象徴)として昔からあるけれど、言語化できない。非リアルな存在としてとらえることも可能かもしれない。神話というのは歴史、あるいは人々の集合的な記憶に組み込まれていて、ある状況で突然、力を発揮し始める。例えば鳥インフルエンザのような、特殊な状況下で起動する、目に見えないファクターでもある。あるいはそれは単純に我々自身の中の何かかもしれない。

 原理主義の問題にもかかわる。世界中がカオス化する中で、シンプルな原理主義は確実に力を増している。こんな複雑な状況にあって、自分の頭で物を考えるのはエネルギーが要るから、たいていの人は出来合いの即席言語を借りて自分で考えた気になり、単純化されたぶん、どうしても原理主義に結びつきやすくなる。スナック菓子同様、すぐエネルギーになるが体に良いとはいえない。自力で精神性を高める作業が難しい時代だ。

 ――市場原理主義、グローバリズムと共に情報化も進んだ。インターネットで検索して情報を得るのは、与えられる情報に操られかねない面もある。

 M 確かに世界は1984年とは全然違う。ワードプロセッサーはあったが、家にパソコンはないからわからないことがあれば図書館へ調べに行った。携帯電話もないから、公衆電話に並び、33回転のレコードが回っていた。それが今はブログで誰もが無責任に意見を出し、匿名の悪意がたちまちネット上で結集する。知識や意見は簡単にペーストされ使い回される。スピードとわかりやすさが何より大事になる。

 今年2月、僕がエルサレム賞を受賞した際も、インターネットで反発が盛り上がったようだ。でもそれは僕が受賞するか拒否するかという白か黒かの二元論でしかなく、現地に行って何ができるかと一歩つっこんだところで議論されることはほとんどなかった。

作家の役割

 ――受賞スピーチ「壁と卵」で「個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるため」小説を書くと発言された。

 M 作家の役割とは、原理主義やある種の神話性に対抗する物語を立ち上げていくことだと考えている。「物語」は残る。それがよい物語であり、しかるべき心の中に落ち着けば。例えば「壁と卵」の話をいくら感動的と言われても、そういう生(なま)のメッセージはいずれ消費され力は低下するだろう。しかし物語というのは丸ごと人の心に入る。即効性はないが時間に耐え、時と共に育つ可能性さえある。インターネットで「意見」があふれ返っている時代だからこそ、「物語」は余計に力を持たなくてはならない。

 テーゼやメッセージが、表現しづらい魂の部分をわかりやすく言語化してすぐに心に入り込むものならば、小説家は表現しづらいものの外周を言葉でしっかり固めて作品を作り、丸ごとを読む人に引き渡す。そんな違いがあるだろう。読んでいるうちに読者が、作品の中に小説家が言葉でくるみ込んでいる真実を発見してくれれば、こんなにうれしいことはない。大事なのは売れる数じゃない。届き方だと思う。

成長つづける若者に興味

女性の観点 より深く

 村上春樹氏の新作『1Q84』は、「400字詰め原稿用紙に換算すると、1984枚」(新潮社出版部)にのぼる重厚な長編。登場人物、ストーリーは、どのように出来上がったのだろう。(尾崎真理子)

交互に配す展開

 ――スポーツクラブに勤める独身女性「青豆(あおまめ)」と、小説家志望の予備校教師「天吾」。二人を主人公にした話が1、2巻それぞれ24章ずつ交互に進む。一方、ストーリー展開はヤナーチェックの「シンフォニエッタ」のようにきわめて独創的だ。

 村上(以下M) バッハの平均律クラビーア曲集のフォーマットに則(のっと)って、長調と短調、青豆と天吾の話を交互に書こう、と決めていた。その前にまず名前が必要だったが、ある時「あ、青豆いいな」とひらめいた。居酒屋のメニューにあった「青豆とうふ」から連想して。天吾という名前も一緒にぽっと出てきて、「あ、これでもう小説はできたな」。2年間書き続ける間、完成への確信は一度も揺らがなかった。

 10歳で出会って離れ離れになった30歳の男女が、互いを探し求める話にしよう、そんな単純な話をできるだけ長く複雑にしてやろうと。2006年秋、ハワイに滞在中に書き始めた時点で頭にあったのはそれだけ。僕の場合は筋書きを考えるとうまくいかない。こういうことが起こりそうだという、小さなポイントみたいなイメージは浮かぶが、あとは成り行きまかせ。筋のわかっている話を2年もかけて書きたくない。

年齢と作品

 ――長編初の三人称の語り。しかし「僕」の語りに近い、村上作品独特の親密さは保たれ、若者たちは傷つきやすく、美しい。30年間書き続けられてなお、村上作品は青春の文学だと再認識した。

 M 作家はふつう、年を取ればその年代をうまく書く。読者も作家と共に年を重ねる。でも、僕は現在を生きて成長しつづけている若い人に、より興味がある。今の20代と付き合いもないし、ケータイ小説やアニメ作品はほとんど知らない。けれど、アクチュアルな物語を書くというのはそういうのとはあまり関係のないことだと思う。

 30歳の頃は30歳の自分のことしかうまく書けなかったが、『海辺のカフカ』では15歳の少年を、『アフターダーク』では19歳の女の子を自分のこととして書けた。今回は10歳の青豆の気持ちから話を始めてみたかった。とくに今回の作品では、女性の感じ方や考え方をより突っ込んで書いてみたかった。

 長い期間、毎日書いていると、作中人物と一緒に暮らしてるみたいになって、「そうか、こういう人だったんだ」とわかってくる。何度も書き直して造形を調整していく。描写の言葉一つ、一行の文章の差し替えで、人物が立ち上がることもある。

暴力と性

 ――天吾を魅了していく、カルト教団を脱走した少女「ふかえり」。彼女も青豆も、性的には大胆な一面を持つ。幼女レイプや家庭内暴力の挿話は、今日的な問題でもある。

 M 『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』には出てこなかった暴力と性が、作品を重ねるにつれて僕にとって大事な問題になってきている。この二つは人の魂の奥に迫るための大事な扉と言っていい。『ねじまき鳥クロニクル』では人間の皮を剥いだり、『海辺のカフカ』では猫の首をはねたり。そこまで残酷な描写は今回ないが、セクシャルな場面はかなり出てくる。嫌がる人もいるかもしれないが、物語にとっては必要なことだ。

 ――2巻は9月で終わる。続編を期待する声も上がるが。

 M どうなんだろう。この後どうするかということは、ゆっくり考えて行きたい。

(出展元)
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20090616bk02.htm
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20090617bk04.htm
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ふむふむって感じで読みましたスマイル





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最終更新日  2009年06月20日 09時38分59秒
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