原作改変について考える
最近は『セクシー田中さん』という漫画の作者の芦原妃名子が原作が未完であることを理由に原作に忠実であることを条件にしてドラマ化を許可したのに、キャラクターが原作とは別人のように変えられたり、作品の核となる部分がカットされたりして、結局は原作者が脚本に加筆修正する事態になったそうな。それで芦原妃名子が29日に栃木県のダムで自殺しているのが見つかったけれど、この自殺には原作改変騒動によるストレスも無関係ではないだろう。私は芦原妃名子の作品を読んだことがないけれど、死屍累々の漫画業界で作品を世に出せる才能がある人がこんな形でいなくなるのは残念なので、これについて考えることにした。●なぜ原作は改変されるのか作者には同一性保持権があるので、ドラマ化などで翻案の許可を与えたとしても作者が同意していない改変は同一性保持権の侵害になる。しかし小説や漫画や映画はメディアごとに表現の形式が違うので、何かを原作にして違うメディアで表現しなおそうとすると忠実に再現しきれないところがでてくる。例えば小説だと自由に章立てできるので長い場面を展開できるけれど、ドラマや映画だと時間の制限があるのでカットせざるを得ない部分が出てきて重要でないエピソードやキャラクターを減らしたり、逆に短いエピソードを引き延ばしたり複数のエピソードつくっつけて1話分にまとめたりする。これは改変されても仕方がない部分として原作者や原作ファンも受け入れられるだろう。しかしテレビや映画はスポンサー集めのためにキャストありきで制作しようとして、原作に合わない俳優をねじ込むためにキャラクターの年齢や性別を変えたり、オリジナルキャラクターを登場させたり、調子に乗ったジャニーズのタレントが勝手にセリフを変えたりする。これは同一性保持権の侵害に当たって原作者や原作のファンには受け入れられない改変なので原作レイプとも呼ばれる。個人で活動していて小説家や漫画家よりも資本力がある出版社やテレビ局のほうが契約上の力関係が大きいので、著作権が十分に守られていなくて勝手に改変されて、原作者が納得していなくても権力や納期で押し切られてしまう。特にテレビや映画のプロデューサーは原作を宣伝してやっていると勘違いして原作者を見下しているようで、原作者の権利が侵害されたことによるトラブルがしばしばある。例えば『海猿』をドラマ化・映画化したフジテレビが原作者の佐藤秀峰の許可を得ないまま関連書籍を出版して揉めて映画の続編が作られなくなった。万城目学は映画のオリジナル脚本の仕事を受けたらボツになった挙句にアイデアを盗用されたとTwitterで愚痴を言っていた。辻村深月は『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』のドラマ化の撮影直前で脚本をチェックして納得できないとして許諾を取り消したら、NHKが講談社に約5980万円の損害賠償請求を求めて提訴した。結局NHKの訴えは棄却されたけれど、気の弱い原作者なら出版社に迷惑をかけたくないとか裁判に巻き込まれたくないとかの理由で我慢して改変を受け入れてしまうかもしれない。映画について考えるでも考えたけれど、日本の映画やドラマはシナリオがダメである。ネットがなかった頃の1990年代までのテレビは『寺内貫太郎一家』や『おしん』や『家なき子』や『ひとつ屋根の下』や『ロングバケーション』とかのオリジナル作品で視聴率20%以上のヒット作が出ていたけれど、いつの間にか原作ありの作品だらけになってオリジナル作品を作れる脚本家が育っていないようである。テレビ番組を作りたくてテレビ局に入社した昭和時代の人たちから金と安定が欲しくて大企業に入社した平成時代の人たちに代替わりして大企業病になって、コケるリスクをとって自分でコンテンツを作って発信しようとする制作意欲や作品の良し悪しを判断する審美眼がなくなって原作に頼るようになっているんじゃなかろうか。それでプロデューサーは自分でコンテンツを作れないくせに大企業のテレビ局や映画会社のエリートの肩書で零細原作者を見下すちぐはぐな状況になっているのだと思う。原作だけ欲しくて原作者は邪魔だから口出しすんなという同一性保持権を軽視する態度は経済界が労働力だけ欲しくて人はいらないというのに似ていて、人を軽視した拝金主義的なやり方で感じ悪い。脚本家も原作を忠実に再現する裏方仕事に徹することができないようで、オリジナル脚本を作れないくせに自分のアイデアを盛り込もうとして原作を壊す。実写化した駄作として有名な『DRAGONBALL EVOLUTION』に対して原作者の鳥山明は「脚本があまりにも世界観や特徴をとらえておらず、ありきたりで面白いとは思えない内容だった。注意や変更案を提示しても、製作側は妙な自信があるようであまり聞き入れてもらえず、出来上がったのも案の定な出来のドラゴンボールとは言えないような映画だった」と言ったそうで、原作の設定を使って原作者よりも面白い作品を作れると勘違いしている根拠のない妙な自信が原作ありのドラマや映画が改変されて駄作になる根本的な原因になっている。原作がある作品のメインの客は原作のファンなのだから、制作者が自己満足しようがファンが満足しないのであれば失敗作である。『ONE PIECE FILM RED』みたいに原作にはない映画版のオリジナルストーリーでも原作者が監修して原作の世界設定やキャラクター像に沿って作られていればファンも受け入れるのだから、プロの脚本家なら自己満足のために仕事をせずに客の方を見て仕事をするべきだろう。原作者が死んだ場合は財産権としての著作権は遺族に相続されても著作者人格権(公表権、氏名表示権、同一性保持権)が消滅するので、作品が改変されうる。例えばトヨタのCMで実写版ドラえもん役にジャン・レノが起用されたけれど、藤子・F・不二雄が生きてたらロボットであることにこだわって許可しなかった可能性もある。・同一性保持権の無理解5ちゃんねるでの議論を見ていると、ドラマ化を許可したのなら原作者は口を出すなという人や、改変した方が原作よりも面白くなるならいいという人がいたけれど、そういう人たちは同一性保持権を理解していないようである。プロデューサーや脚本家も同一性保持権を理解していなくて、翻案の許可をもらったら内容も好きに変えていいと誤解していて改変が常態化しているのじゃなかろうか。難しい法律の話でなくて原作者の同意なしに内容を変えてはいけないという一般常識レベルの話なので、同一性保持権を理解できない人はコンテンツビジネスに関わるべきでない。作者にとって作品は自分の思想を表現した存在の分身や子供のようなもので、だからこそ思想の表現でない工業製品とかと違って同一性保持権があるのだけれど、自分で作品を作ったことがない人にはその概念が理解できないようで加工素材程度にしか認識していないようである。たとえ下手でつまらなくて売れない作品だとしても作者はその内容の同一性を保持する権利があるし、意にそぐわない改変を防ごうとするのは原作者のわがままではなくて当然の権利である。自分の子供が勝手に名前を変えられたり整形手術をさせられたり性転換させられたりBLカップリングのネタにされたりしたら誰でも文句を言うだろうし、面白さの追求とか金儲けとかのどんな理由であれ思想の表現を勝手に変えていいものではない。原作レイプは原作者の魂の殺人である。脚本家の存在意義は原作を改変してオリジナリティーを付け足すことではないし、原作を違うメディアで再現する職人としての裏方仕事に徹することができない脚本家は原作がある作品の脚本を引き受けるべきでない。もし大工が建築士の図面を無視してオリジナリティーを出そうとして部屋の間取りを勝手に変えて家を建てたら施工不良として損害賠償請求されるし、通訳が相手の発言を忠実に翻訳せずに勝手に自分の意見を付け足したら通訳としては役に立たないように、脚本家なのに原作の同一性保持権を無視してオリジナリティーを出そうとする奴は自分の仕事の役割をわかっていない無能な働き者である。●原作を改変されないようにする方法『鬼滅の刃』みたいにアニメ化やドラマ化をきっかけに人気が加速して原作も売れることもあるので、他のメディアで展開することは原作者にとっては必ずしも悪いことではない。しかし『セクシー田中さん』のように原作に忠実であることを条件にしてドラマ化を許可しても無視されて原作を改変されるとなると、ドラマ化や映画化を許可しないことが同一性保持権を守る確実な手段となる。漫画家の井上雄彦が『SLAM DUNK』の映画化の際に自分で監督・脚本を担当したように、製作者側に入って権限を持てれば一番よいのだけれど、原作者が有名でない限りそこまでの権限は持てないだろう。ドラマ化や映画化をするにしても相手を選んで交渉して、原作レイプの前歴があるプロデューサーや脚本家は避けるべきだろう。それでも原作レイプが起きた場合は、小説家や漫画家たちが組合を作って1年くらい新規のドラマ化を全員で拒否して出版社やテレビ局のやり方に抗議するなりしないと、今後も原作者や原作が軽視されて100-200万円の安い原作使用料でテレビにネタを提供する有料素材扱いされて同一性保持権は尊重されないだろう。あるいは原作でなく原案扱いにして原作と切り分ければドラマ化や映画化が失敗しようが原作には傷がつかないで済む。楠桂の『八神くんの家庭の事情』や、きくち正太の『おせん』のように、ドラマ版が原作とあまりに違うことを原作者が受け入れられない場合は後から原案扱いに変える場合もある。あるいはテレビ局が最初からメディアミックスの製作チームに加わってメディアごとのプロデュース方針を決めていれば後で揉めずに済む。例えば『機動警察パトレイバー』はゆうきまさみが編成したヘッドギアというグループのメンバーが作品の設定を共有して、漫画版では組織犯罪絡みのシリアスなストーリーを展開している一方で、OVA版にはAV98星雲から来たイングラマンみたいな漫画のストーリーとは関係がないパロディ回もあって製作者が遊んでいるけれど、それに対して漫画版のファンが怒るわけでもなくてOVA版はそういうテイストとして受け入れられる。テレビ局がリスクを取らずに人気になった作品だけ原作として利用して都合がいいように改変したいという態度ではクリエイターやファンの信頼は得られないだろう。作者に無断でエロ同人誌を販売されたり、夢小説のカップリングネタに使われたりするのも同一性保持権の侵害になる。作者が二次創作を認めなくて法的な対処をする旨を公式サイトで公表すれば、作者の意向を汲んだファンが違法な同人誌を見つけて告発してくれて被害防止になる。●メディアミックスの危険性小説や漫画を翻案した時に改変したアニメ版やドラマ版や映画版のほうが認知度が高くなってしまうと、原作の存在が薄くなって原作者が表現したかったことは伝わらなくなる。例えば『サザエさん』や『ルパン三世』はアニメ版はたいていの人が知っているけれど、原作の漫画を読んだことがある人はほとんどいないだろう。長谷川町子やモンキーパンチはアニメ版が自分の漫画とは違うと文句を言っていたけれど、いったんアニメ版が世間に定着してしまうと覆せなくなる。作者の思想や感情を表現した作品から金儲けするための商品に変質して、それが代表作のように扱われてしまう。創作をただの金を稼ぐための手段だと割り切れる人ならそれでもよいけれど、後世に自分の作品を残したい人は安易にメディアミックスをしないほうがよい。●脚本家の言い分小説や漫画は作家個人の才能に依存して作品単体で完成しているのに対して、脚本は役者に演じてもらわないことには作品にならないのでチームで作品を作ることになる。アメリカだと脚本の第1稿は買い取られて報酬を得る代わりに脚本に手が加えられることを認める契約をして、ライターズ・ルーム方式で複数の脚本家がアイデアを出し合って合作している。作品が属人的で同一性保持権がある小説や漫画の作者と、チームで制作して脚本を変えることが前提になっている脚本家では話がかみ合わないのも当然である。オリジナルの脚本を変えるのは好きにすればいいけれど、すでに作品として独立して完成している小説や漫画を改変しようとするから問題になる。日本映画製作者連盟の記者会見で東映、東宝、松竹、KADOKAWAの社長が原作を尊重する姿勢をコメントしたけれど、原作者が同意しなければ作品作りができないのだから尊重して当然である。しかしその姿勢が現場の監督や脚本家や俳優に浸透していないのではなかろうか。日本シナリオ協会が「緊急対談:原作者と脚本家はどう共存できるのか編」という動画をYouTubeにアップロードしたけれど、原作は大事だけど原作者には会わなくていいというような原作者を軽視するような発言が批判されたようで動画が削除された。実際にどんな発言があったのかは動画が削除されたのでわからないけれど、何か言いたいことがあるなら動画を削除しないで誤解がないようにさらに詳しい説明をしないと一般人には伝わらないだろう。表現者の端くれなら、動画を消さず、SNSを鍵垢にせず、批判に対して反論すればいいではないか。今言わずにいつ言うというのだ。