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2019年08月13日
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カテゴリ:遠刈田系

佐藤正吉と大原正吉(その署名)

大原正吉(1910-1980)は遠刈田の出身。「昭和138月北海道の登別に移り、同地の漆原木細工工場の職人となって働いた。こけしや茶筒、玩具類を作った。昭和151月に独立し、佐藤木地細工工場を開業したが、同年8月に閉鎖、再び漆原木地細工工場で働いた。昭和16年に兵役召集に応じ満州に赴く、帰還後はミワ木工所で働いた。昭和20年大原家を継ぐべく夫婦養子となって入籍、大原姓に変わった。登別駅前に自宅を構え、ロクロを設置して開業した。長く登別の土産物としての木地物を挽き、こけしや玩具を作り続けたが、昭和5768日に没した、行年73歳。」(KokeshiWiki

昭和20年に大原姓になっているため、戦後は大原正吉と署名すると考えている方がいるが、実は昭和29年ごろまでは「佐藤正吉」のままである。

これは佐藤正吉として注文されて「大原」ではおかしいと思ったのかも知れない。この点、KokeshiWikiの説明は不十分である。

佐藤正吉名では遠刈田時代、中ノ沢時代(昭和11年~13年)がある。登別時代は「登別 佐藤正吉」「北海道登別 佐藤正吉」。大原正吉名では「登別 大原作」とするものが多い。

確認できるものでは①1932年(昭和7年)がもっとも古いが、これは無署名で旧蔵者によって工場主の「北岡仙吉」とされている。②は1934(昭和9)で「遠刈田 佐藤正吉 昭和九年二月八日」との記載があるが、この時代に工人が署名をすることはなく字体も本人とは異なるので所蔵者の記載であろう。③1937年(昭和12年)も無署名で「木形子洞」(橘文策)蔵票が貼ってある。④は「かゞ山」の蔵印があるもので昭和13年(1938年)とされている。ここには楷書で「佐藤正吉」とあるがこれも本人の署名ではなかろう。なお「かゞ山」は加賀山昇次で戦前の東京こけし会の発起人の一人で、戦後の東京こけし友の会会長でもある。

その他年度不明のものもあるが、自筆の佐藤正吉署名は戦後の「登別 佐藤正吉」とするものしかない。

さて昭和29年ごろまでは「佐藤正吉」である根拠は旧北原直喜(童宝舎)の昭和二九年とするものがあるからである。ここには「佐藤正吉 大原 八寸 昭和二九年」の荷札が付けられている。大原姓でも佐藤正吉であるとのことだろう。字体は楷書であるが北原直喜からの注文であるので楷書としたのだろうか。一般的には草書である。その違いは画像で明らかであろう。その双方とも自筆と考えられる。

戦前の佐藤正吉はいずれも人気が高い。過去ヤフオクで最も高値を付けたのは中ノ沢時代の於芥子園(米浪庄弌)の蔵票と蔵印付の24101,000円。これは53件の入札があった。(2019414日)
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最終更新日  2019年08月13日 00時52分08秒
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