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テーマ:伝統こけしの魅力(99)
カテゴリ:遠刈田系
大沼昇治は佐藤茂吉-円吉-治郎とつづく系統で、なかでも円吉型の継承者として知られている。 円吉型は割れ鼻であるが、このたびヤフオクでなんとも魅力的な昇治を発見した。これは丸鼻、目尻は上がる(いわゆる吊り目)で、こんな大沼昇治は見たことがなかった。 これは遠刈田系3本セット1701円で落札出来た。高さは21.5㎝襟付重ね菊。 このような丸鼻吊り目が、茂吉系統にあるか調べてみたが、調べた範囲では治郎、円吉にはなく、茂吉は割れ鼻だけでなく丸鼻もあった。吊り目はあるかだが、KokeshiWikiの茂吉の昭和15年の15.5㎝(田村弘一蔵)がそれに近いようだ。ただしこれは割れ鼻で、丸鼻吊り目のパターンは確認できなかった。 過去の落札結果をみると、2017年2月28日終了の大沼昇治6本のうち、1本が丸鼻吊り目であった。したがってまったく作っていなかったわけではないことが確認できた。 なんとも魅力的な面描(表情)で、しばらくこのタイプの大沼昇治を追求してみたいと思っている。大沼昇治の生前に気が付いていればというのも今は空しい。 このタイプが、現在どれだけ残っているのだろうか。 それが難しいなら復元だが、すでに大沼昇治が没したあと、茂吉系は廃絶してしまった。 一時問題となった円吉の弥治郎風のくびれ胴の梅こけし(2019/9/6 佐藤円吉の梅こけし-伝統と創造の葛藤)も、後継者はいなくなってしまった。 【大沼昇治】(1932~1998) 系統:遠刈田系、師匠:佐藤治郎/佐藤文男 〔人物〕昭和7年5月17日、宮城県刈田郡七日原の酪農業大沼彦太郎の五男として生まれる。昭和21年尋常小学校を卒業後、父の酪農業を手伝っていたが、昭和24年18歳のときから、遠刈田新地の佐藤文男について木地を学んだ。昭和26年より、安藤勇とともに白石市越河に木工所を開き、洋家具の部品などを挽いた。 昭和31年に遠刈田新地に戻り、佐藤治郎について伝統こけしを学び、製作を始めた。その後、治郎の工場で働いていたが、昭和44年3月より佐藤照雄の工場を借りてこけしの製作を行った。昭和46年からは遠刈田温泉の入口に自宅を構えて営業した。平成10年8月12日没、行年67歳。 〔作品〕昭和31年、伝統こけしを本格的に作り始めた頃の遠刈田は、未だ終戦直後の新型こけし隆盛期の影響下にあって、全体に甘い作風であった。昇治は師匠の佐藤治郎の作品に倣ってこけしを製作したが、そのこけしも当時の遠刈田全体の作風の影響を受けたものだった。 昭和41年より、師匠治郎の先代にあたる佐藤円吉の古型を研究するようになり、その復元を試みた作品は円吉の意匠を現代的な感覚で再現したものであって、清新な魅力を感じさせるこけしであった。 その後、円吉のいくつかの型を次々に復元したが、それぞれが十分に成功し、また作行も安定して、大沼昇治自身の型といっても良い段階となった。昭和45年1月には東京日本橋の高島屋で小林清次郎、奥山庫治とともに、また昭和51年1月には東京大丸で我妻信雄とともに実演を行った。 西崎鉄二は、大沼昇治に魅せられて、〈こけし手帖・168〉「工人大沼昇治の場合」、〈こけし手帖・174〉「大沼昇治工人とその周辺」 と続けてその賞賛記事を書いた。 円吉は、おそらくその父茂吉の全盛期の型をかなり忠実に継承していたはずで、その意味では円吉型を作る大沼昇治は、茂吉の流れを汲むこけしの現代における成功した継承者であった。(KokeshiWiki一部抜粋) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2019年12月03日 05時03分13秒
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