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テーマ:こけし探訪(85)
カテゴリ:こけし用語辞典
「奥瀬鉄則は・・・盛秀太郎につき木地修業を始め」「石塚智は・・・最初は3年間の修業の約束であったが、食糧事情で1年半の修行となった。」(KokeshiWiki) 『こけし辞典』ではきっちり「修業」に統一されていて「修行」はない。「修業」に替えて「習得」「弟子になる」などの記述もある。KokeshiWikiの場合は誤変換(誤植)の範囲であろう。こけし工人(木地師)の場合は「修業」であって「修行」ではない。この二つははっきりと区別されている。 「修業」(しゅぎょう)とは一定の技術・学芸を身につけること。 「修行」(しゅぎょう)とは精神を鍛えること。(仏教あるいは学問や技芸を磨くために努力すること。) つまり工人が師匠について学ぶのは修業で修行ではない。工人自身が「私は一生修行」です」というのは精神的な意味でいいとしても、客観的な記述では「修業」である。なお「修業」は、もともとは「しょうぎょう」と読んでいて、現在でも「修業証書」などと使われることがある。 【修行】しゅ‐ぎょう〔‐ギヤウ〕[名](スル) 1 悟りをめざして心身浄化を習い修めること。仏道に努めること。 2 托鉢 (たくはつ) ・巡礼して歩くこと。「全国を修行する」 3 学問や技芸を磨くため、努力して学ぶこと。「弓道を修行する」「武者修行」 熟語:修行僧、修行者、修行位 【修業】しゅ‐ぎょう〔‐ゲフ〕[名](スル) 学問や技芸を習い、身につけること。しゅうぎょう。「修業中の身」「師のもとで修業する」「花嫁修業」(Goo辞書)
[佐藤俊明のちょっといい話]第51話 「修行」と「修業」 文章を書くとき、私は必ず「修行」とかいているのだが、漢字になったものをみると「修業」にあらためられていることが一度や二度ではない。 編集者が用語の慣例に従って親切に訂正してくれるのだろうが、実は有難迷惑なことである。 なぜなら「修行」と「修業」では肝心の意味が違うからである。 「修業」とは一定の業を修めることで、基準に達すれば「卒業」となり資格がつくのだが、「修行」には「卒行」がない。終わりのない行を修めるのが修行である。 終わりのない行とはなにか。 それは仏祖の践み行われた大道のことであり、それを修め護持するのが修行である。換言すれば「修業」とは自分のため、自分の利益のために業を習いおさめるもの。「修行」はなにも求めず、利害損失を離れて、昔の悟りを開いた人々の道と行ずることである。 唐の時代、馬祖道一(ばそどういつ)が座禅修行に励んでいるところへ師匠の南獄懐譲(なんがくえじょう)がやってきて 「感心に座禅をしているが、それは何のためだ?」と訊ねた。 「仏になるため」つまり悟りを開くためですと馬祖が答えると、南獄は瓦を持ってきて、石にあててこすりはじめた。馬祖が「何をなさるんですか」と訊ねると、南獄は「磨いて鏡にするんだ」という。 「瓦を磨いても鏡にはならんでしょう」と馬祖がいうと、南獄は 「座禅をしてどうして仏になれるのか」といって、座禅を悟りの手段と考えることを戒めた。 座禅をしながら悟りを待ち望む思いがあってはならぬ。修行はそれを利するための手段であってはならぬというのである。 (画像は修業中の木村敦(弥治郎こけし村)2018年4月18日「河北新報」) 1/29『こけし図譜』追加。 <こけし用語辞典by松田ひろむ>本用語辞典は『こけし辞典』(東京堂出版)、<KokeshiWiki>に立項されていない項目。あるいは内容や定義が相当程度異なるもの。内容を相当大きく充実させたものに限定している。必要に応じ順次充実させてゆきたいと考えている。みなさまのご意見、ご叱正をいただければ幸いである。
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最終更新日
2020年01月31日 19時12分47秒
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