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テーマ:こけし探訪(85)
カテゴリ:遠刈田系
平井敏雄『こけしの真実』を読む2 およね伝説 髷付の およねについてはすでに小生の「用語辞典」で書いたが、『こけしの真実』は当事者に問合せをするなどして、新たな発見があった。 (およねこけしの起源については)斉藤良輔氏の《おもちゃと人形》(昭和42年)には「(小林善作は)昭和38年ごろから土地の民謡「沢内三千石お米の出どこ、桝で計らず箕(身)で計る」にちなんでお米こけしというのもつくりだした。かわいらしい髷つきで頰っぺたを紅く塗った村娘‐南部藩の隠田であった沢内領から、年貢米の身代わりに売られていったお米っコに型どったこけしである」と書かれている。この文から、《およねこけし》は昭和38年頃に始めて作られたことが分かる。 さらに確認のために小林輝子氏に問い合わせたところ、「まげこけし(註:《およねこけ し》)は昭和38年に湯本温泉旅館組合と言いますホテル対滝閣の主人に《およねこけしを作ってドさいと小林善作おじさんが頼まれ、佐藤丑蔵さんに相談して丑蔵さんがまげ付のこけしを作ったのがはじまりです》との回答をいただいた(私信)平成21年」 昭和38年といえば第2次こけしブームの真っ只中で、「こけし」は作ればすぐに売れる時代であった。また、《西和賀町観光協会公式ブログ》(平成19年)に『後年になってから、およねの献身を称えた《およね地蔵尊》が沢内字新山の旧家•吉右ヱ門(現吉田孝一氏)家に建てられましたが、昭和38年9月23日に太田の浄円寺お境内に遷宮(註:遷座)され祭(祀)られた』と書かれている。竹内勉氏は《日本の伝説42岩手の伝説》(昭和55年)の「およね地蔵と沢内甚句」で、『沢内を訪ねてくる人たちに何か見て帰ってもらうものがないかと考えていたら、役場の人たちの中に《およね地蔵》を建立したらどうかとの話しがでてきた。そこで新しい像を彫るのも妙だからと、新山辺にあった地蔵さまを浄円寺境内に遷座して、ここに《およね地蔵》と命名したとのことである。(略)観光がからんで《およね地蔵》建立までになったようである』と書かれている。このように昭和38年は《およね地蔵尊》が現在の場所に移された年である。 これらの行事に合わせて地場産品作りの一環として、地元を救った恩人である「およね」さんの名前を使った《およねこけし》の創作が依頼されたもので、《およねこけし》が天保時代の悲話としての「およね」を偲ぶために作られたものとは思えない。《およねこけし》の製作は現在はこけし工人の小林定雄氏によって継がれており、小林氏は《およねこけし》を『厳しい自然を友として、たくましい生命力と、やさしい心情を育んでいった子供たちとして表したい』との気持ちで挽いているそうである(《NHK新日本紀行第4集-民芸 に生きる—》昭和53年)。私は《およねこけし》を悲話としてではなくて、未来に向かって力強く生きようとする子供達へのエールとして受け止めたい。
として、「口減らしのために子供を殺し、その供養のために「こけし」が作られた』は真っ赤な嘘である。」とする。これまでも書いたようにこの点にはまったく異論はない。古い地蔵を移設(遷座)して<およね地蔵>としたというのも、元の地蔵はおよねとは関係ないので変なことである。 ここでは<お米こけし>の創案の経過が明らかになったことが貴重である。 平井氏宛の小林輝子(私信)によると、お米こけしを最初に作ったのは、小林善作(1909-1970)でなく佐藤丑蔵(1889-1986)ということになる。これはこれまで小林善作の創案という定説と異なるが、丑蔵と善作との共同作業(創案)と考えてもいいのだろう。1963年(昭和38年)というと丑蔵75歳(数え歳)である。 KokeshiWikiの小林善作の項に「伝統的なこけしのほかに頭に大きな髷をいだいた「およねこけし」も作った。これは湯田地方の沢内甚句「沢内三千石 お米のでどこ 桝で量らねで箕で量る」で謡われたおよねに因んだこけしだという。歌詞には不作の年に米の代わりに娘のおよねの身(箕)を殿様に差し出したという意味が隠されている。」とあって、丑蔵のことはまったく書かれていない。 佐藤丑蔵が湯田にいたのは大正10年より昭和17年までで、この話のあった昭和38年には遠刈田にいたが、しばしば湯田には来ていたという。そのなかで生れた<お米こけし>であろう。 以上によって小生の用語辞典「およね」の記述も若干変更することとしたい。 画像は丑蔵のお米こけし。27㎝。丑蔵のおよねこけしには面描の異なるものがあるが、ここでは素朴なものを選んだ。(ヤフオク2013年3月27日、3090円) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年02月21日 05時33分38秒
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