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カテゴリ:銀の月のものがたり
「いらっしゃい、シエル」
サラと一緒に小川を覗き込んでいたシエルが、もじもじとこちらを見ているのに気づいてマリアは縫い物をやめ、微笑んで腕をひろげた。 照れた笑顔で木陰に走ってきた小さい身体を、膝に乗せてぎゅっと抱きしめる。 シエルはどちらかというと甘えるのが苦手だ。 抱っこしてほしくてもなかなか自分から飛び込むことができなくて、指をくわえるようにしながらちらちらと相手を見ていたりする。 今も嬉しそうに抱かれてはいるものの、マリアが腕をゆるめても、ぺったりと身体を預けてくることはなく、なんとなく背中に力が入っていた。 明るい色の髪を撫でてやりながら、マリアは優しく尋ねる。 「どうしたの?」 「ん……、あの、あのね……」 しばらく逡巡した後、ようやくぽそりと口にする。 「ぼくね……、ここに、いてもいいの…?」 幼子にとって、おそらくは世界のすべてがかかっている重要な質問。 涙のたまった大きな瞳をまっすぐに覗きこんで、マリアはにっこりと笑ってみせた。 「もちろん、いいのよ。シエル」 「だって……、ぼく、ぼく、なにもできないんだよ。たべて、ねて、あそんでばっかりだって。ママにも、おとーさんにも、やくにたってない……」 柔らかい頬に、ぽろんと大粒の涙がひとつ。白い指がそっとぬぐった。 「役に立たないからいらない子だと思ったの? 捨てられちゃうと思った?」 柔らかな声にびくんと顔を上げると、すみれ色の瞳がじっとシエルを見ている。宵闇の優しい色に拒絶されてしまうのではないか。そんな冷たい恐怖がシエルの背筋を滑り降りた。 「ご…ごめっ、なさっ…」 幼子は目をそらし反射的に身体を捻ろうとした。まるで、見ないでいれば猶予が生まれるとでも信じているように。 マリアはそれを許さず、逆に向かい合わせから赤子のような横抱きに変えて、小さな身体をしっかりと抱き寄せる。 「シエル、シエル。怖かったのね……」 「……っ! ぃやあぁあああ!! はなして!」 シエルは身体を思い切りばたつかせて、自分を包む腕から逃げようとした。しかしもがく腕も足も、絶対に離さないという意思のしっかりとした感触のもとに押し返され、赤子の形に押し戻される。 幼い心と身体に溜まっていた恐怖の嵐は、出口を求めて口から絶叫となってほとばしり出た。 マリアはそれを止めようとはしない。両の指を離れぬように組んですべての反抗をひたすらに受け止め、涙もなく号泣というより絶叫を続ける耳元に、辛かったね、寂しかったわね、と優しくささやき続けた。 少し離れたところでは、ルシフェルに抱かれたサラが心配そうに見つめている。 「…ふぇ…」 どれほどの時が経ったのだろう。シエルの身体から力が抜け、目からぽろぽろと涙がこぼれだした。 マリアは微笑んで片腕をほどくと、汗びっしょりになった小さな額と目元をハンカチで拭ってやりながら、穏やかに語りかけた。 「ねえシエル。私はこうしてあなたを抱っこするのが好きよ。あなたの笑顔や寝顔を見るのが好き。遊んでいるのを見るのが好き。泣いているのも怒っているのも可愛いわ。病気で寝込んでいても愛しいの」 涙をこぼし、時折しゃくりあげながらシエルはじっと耳を澄ませる。 マリアのことは大好きだけれど、いつか捨てられるのではないかという恐怖がずっと消せなかった。 けれど、やっぱり僕はここにいていいんだという温かな思いが、じんわりと泉のように湧いてくる。 体中の力が抜け、抱いてくれるひとの唇から優しく紡がれる音楽は、涙と一緒に幼子の心にゆっくりと染みこんでいくようだった。 「あなたがいてくれることで、私はたくさんの幸せをもらっているのよ、シエル。あなたたちはいつでも、私の宝物なのよ」 優しい手が額にはりついた髪をかきあげ、愛しげに降ってくるキスの感触。マリアの言葉を子守唄のように聞きながら、シエルは暖かな胸に顔を埋めて、いつのまにかすとんと眠りについていた。 魂の生まれる場所。 それは同じ場所なのか違う花園なのか、子供達にはわからなかった。 マリアが連れて行ってくれたのは、ほんのりと桃色味を帯びた金の光が大河のように流れて見える、あるいは大地を埋める花々からぽあんぽあんと生まれては次々に浮き上がって見える、そんな所だった。 目の前を埋めるきらめきの美しさに、子供達は茫然と目を奪われている。 マリアの左手をぎゅっと握っていたシエルはまっすぐ前に見とれていたが、サラはだんだん怖くなって、白銀のローブを着たマリアの足にしがみついた。 「サラ?」 優しい声がして、白い手がそっと幼子を抱き上げる。 やわらかな月の光が花々から生まれては、やがて夜空に届くかのようだ。あまりにも美しい光景を見続けていてはいけない気がして、サラは銀髪の流れる細い肩に顔を埋めた。 昼間、サラのせいでシエルが泣いていると思ったのだ。 大好きなシエルに辛い思いをさせるくらいなら、自分などいない方がいい。 なのに、なぜ生まれてきたのだろう。いつもサラに一生懸命になってくれるシエルを、わざわざ泣かせるためにいるのだろうか? そんなの嫌なのに、どうしてここにいるのかわからなかった。 ここにいてはいけないのなら、どうして生まれてきたのか、わからなかった。 「だいじょうぶよ、サラ」 多くを語らない声は、何もかもを知っているかのようだ。背をなでてくれる穏やかな感触に、サラはおそるおそる顔をあげた。 焦げ茶色の瞳に映る、たくさんの光の海。その光は夜空に浮かぶ星のようで、弱くはないがけして鋭くもない。 草原に降ろされ、シエルと二人マリアに手をひかれて歩いてゆくと、ふわっと波が起こったように光の珠が空に向かって舞い上がった。 それを見たシエルが走り出す。わくわくした顔で光の集まっているところに向かってゆくと、ちいさな両手で珠をすくいあげ、空に放した。 大きな蛍の群れのように、きらきらと星が天にあがってゆく。 そうやってしばらく遊んでいると、大きな手が後ろからシエルを抱き上げた。 「シエル、おいで」 「とーさま!」 満面の笑顔でルシフェルの首にぎゅっと抱きつく。長身のルシフェルに抱かれると、視点が急に高くなって世界がずっと広がる気がした。 「いらっしゃい、サラ。そろそろ行きましょう」 ふわふわと飛んでいる光に溶けてゆきそうな優しい声に、サラはまたふと怖くなって顔を俯かせた。 そんな幼子を、マリアは屈んでぎゅっと抱きしめる。 「サラ、怖くないのよ。あなたたちも、ここから生まれたのだから…。生まれてきてくれて、本当によかった。とても嬉しいわ。ありがとう」 柔らかな黒髪をそっとかきあげながら微笑むと、サラの瞳に涙があふれた。 自分は、大好きな人を苦しめるだけの存在ではないのだろうか。 生まれてきて嬉しいと、ありがとうと、言ってもらえるのだろうか? 「ママ…?」 「ええ、サラ。大好きよ」 すみれ色の瞳は、嘘も揺るぎもなくまっすぐにサラを見つめてくれていた。 負から正へ。あなたの存在は誰かの負担ではなくギフトなのだと、その瞳は優しくくるりと世界を反転させてくれる。 「ママ!」 嬉しくて嬉しくて、サラは小さい身体でぎゅうっとマリアに抱きついた。 片腕にシエルを抱いたルシフェルの大きな手が、サラの黒髪を撫でる。 「愛しい子供達よ。お前達は誰も、ひとりではないのだよ」 深い声は、二人の胸に染みるように響く。 戻ったいつもの花園で、ルシフェルは二人を肩に乗せた。木登りをしたような視点の高さに、両側から思わず黒髪の頭に抱きつきながら、子供達はどこまでも広がる花園、優しい光と幸せに満ちた場所を見下ろした。 そして絶対にこの景色を忘れるまいと、二人は心に決めたのだった。 一晩が経ち、夜のうちにルカが来てくれたことを知った子供達は大喜びだった。 朝ごはんもそこそこに両側から手を握って、花畑に連れ出そうとする。 草の上に座ったルカは大きな緑の光の球を作ると、それを両手で力いっぱい押しつぶした。 「そおれ!」 テニスボールくらいまで圧縮したそれを握り飯のように持ったまま子供達の前に差し出して、ぱっと手を開く。 球は一瞬で元の大きさまでふくらみ、衝撃でポーンと空へ高く跳ねて、それから二人の上へ落ちてはバウンドした。 それがおかしいらしく、何度も子供達が頭を押さえて笑い転げる。 「えへへ、きのうねえ、サラねえ、ルカにーたんにほっぺにちゅーしてもらったんだよ」 寝ぼけていてもそれだけはしっかり覚えていたらしいサラが、嬉しそうな顔でシエルに自慢した。 シエルの顔が少ししかめられたのを見逃さなかった青年が、にやりと笑う。 「羨ましい? シエルにもしてあげるよ。不公平はよくないからね」 「いっ、いいっ!!」 顔を真っ赤にして全速力で逃げ始めた子供を、ルカが笑いながら追いかける。シエルが甘え下手なのは彼も知っているのだ。 さんざん追いかけっこをして捕まえると、すでにお昼の時間だった。 抱えたまま連行することにした幼子の身体が、先日よりも緊張がとれて柔らかくなっていることにルカは気づいた。 「抱っこの時間があったんですね?」 大樹の木陰に用意された白いガーデンテーブルの椅子にシエルを座らせながら尋ねる。それは質問というより確認で、マリアは微笑んで頷いた。 「ルカにもしたことがあったわね」 「そうですね……そういうとき、どんなに大暴れしてもお二人の腕は絶対に外れませんでした」 ルシフェル様はともかく、レディは今見たらこんなに細いのに、と青年がつぶやく。 幼い頃、大海のように広いと思っていた腕の中。けれどその持ち主は実はとても華奢で、背の高さも今のルカの肩ほどしかないことに今更ながら彼は気づいた。まして長身のルシフェルと比べると、顔は胸あたりがせいぜいだ。 シンプルなドレスに包まれた白い細腕も、男の自分が力を入れたら簡単に折れてしまいそうだった。 それなのに、しっかり抱っこすると彼女が決めた時は、子供達がどんなに暴れても泣き叫んでも絶対に外れなかった。 どの子もそれをよく知っていて、何を吐き出しても強く抱きとめてもらえるその感触が、計り知れない安心感になっていた気がする。 何を感じてもどんなふうに辛くてもたとえ自分で自分を呪っていても、それでもいつもあなたが大事だと、言葉以上にそのぬくもりは伝えてくれた。 すべてを受け止めてもらった後に訪れる眠りは、たとえようもない安息だった。 「またいつでもしてあげるわ、ルカ」 大人用のトマトソースのパスタを配りながら、すみれ色の瞳が青年を見る。さすがに気恥ずかしくて目をそらすと、腹ペコで先に食べ始めた子供達が顔じゅうをソースだらけにしていた。それを笑って拭くふりをしながら言葉をにごす。 「や……それは、その」 「もし望むならね、あなたもいつでもこの子たちくらいに小さくなっていいのよ」 花畑に立っているマリアの髪や肩に、木漏れ日がちらちらと明るい光を落としてゆく。眩しさに目を細めた青年の頬を、白い指がそっと撫でていった。 「あなたが今、その姿で二人の世話をすることで癒されているのは知っているわ。だけど覚えておいてね、ルカ。あなたもまた、ここでは甘えてもいいのよ」 「お前も、どんなに時が経っても、いつまでも私達の大切な宝物なのだよ」 テーブルの向かいで愛おしそうに子供達を眺めていたルシフェルが、懐かしげに視線をむけて微笑む。 その声は花の香りの風に乗って、すべての花園の子供達に届いてゆくように、ルカには思われた。 ----- ◆【銀の月のものがたり】 道案内 ◆【外伝 目次】 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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