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カテゴリ:舞台
5月も文楽に行ったのですが、なかなか書く機会がありませんでした。5月東京公演は珍しい「絵本太功記」の通しでした。「夕顔棚」や「尼ヶ崎」は歌舞伎でも文楽でもよく上演されるのですが、通しを見るのは初めてです。通しといっても、いくつかの段が省略されているようでした。
江戸時代には制約があったので登場人物の名前が微妙に変えてあります。羽柴秀吉は真柴久吉、織田信長は尾田春長、明智光秀は武智光秀というぐあいです。太閤記も一字変えて太功記となっています。 秀吉は「猿」とあだ名されていたといいますが、この絵本太功記では、見た目にも堂々とした侍として描かれています。尾田春長(信長)は寺社を焼き討ちにしたり、戦をしかけてその地の民を苦しめており、悪鬼と呼ばれています。森の蘭丸(森蘭丸)はこの物語では、春長には忠実だけれど、権力をかさにきた嫌なやつです。春長ともども光秀にさんざん嫌がらせをし、ついには光秀に本能寺で主を討つ決心をさせます。 春長を討った光秀に、母さつきは「主君を討つような者とは一緒に暮らせない」と言ってさっさと旅支度をして出て行くのですが、ちゃんと家来に家財道具一式持たせて行くところ、悲劇的な物語の中の息抜きの場、チャリ場なのでしょうけれど、綱大夫さんはあまりこっけいさを打ち出していませんでした。浮かないように、ということでしょう。ほかのかたはどう語るのでしょう。光秀は自害しようとしますが、人びとを苦しめる悪鬼を討伐したのは正しい行いだったのだと言われて思いとどまります。 物語はドキュメンタリー風?に日付を追って語られます。 びっくりしたのは、光秀の家臣、鱸孫市が切腹するのに幼いわが子たちに介錯させたところです。自分の首を久吉のところに持っていって和を乞うようにと死ぬのですが、子供達に、お父さんの子なら言うとおりにしてほしいといい、7歳の弟の方が、孝行になるならと、「サア早う腹切ってくだされ」なんて言うのです。だいたい、子どもに失敗なく首が切れるとも思えませんが、姉弟が両側からすぱっと切って首がぼとっと落ちます。 その後たちまわりではその他大勢の家来の一人が顔をそがれます。 ![]() 梨割りというしかけのある人形で、いつもなぽかんとして目をしろくろさせているのがこっけいなのですが、今回は倒れるのでなんだか恐い。その後の段は武智が頼りにする武将の壮絶な討ち死にの場。 もう少しで久吉を討てたのに、この機会を逃していつ討てるのか、とくやしがりながら死んでゆきます。 よく上演される「尼ヶ崎」では、身をやつしてやってきた久吉に母さつきは入浴をすすめ、それをものがげから見ていた光秀が槍で突くと、なんと、久吉と入れ替わっていた母が苦しみながら出てきます。初陣の息子も深手を負って戻り、愁嘆場ですが、久吉は後日勝負をつけようといい、ふたりの勇者は別れます。 と、こんな場面ばかりとりあげるとやたら血なまぐさく殺伐としていそうですが、実際は家族の情や心の葛藤などが描かれています。 全部読みたい方は、若くしてなくなった鶴澤八介さんのサイトに床本があります。 絵本太功記 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
June 9, 2007 02:24:53 PM
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