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2009年02月09日
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テーマ:京都。(6103)
カテゴリ:お散歩 京都
 さぁちゅんです。

豊国神社の北隣に建つのが方広寺です。

皆さんは「京の大仏さん」ってご存知ですか?

かつて京都には奈良の大仏をも凌ぐ大きさの大仏がありました。

どのぐらい大きいかというと、奈良の大仏は高さ16メートル、京の大仏は高さ19メートル、大仏殿においては、高さ約50メートルだったといいます。

ただし、秀吉は鋳造では時間がかかりすぎると木造にし、金箔漆で仕上げたそうです。

そして、奈良の大仏殿より大きな大仏殿を建て、大仏殿前の狛犬まで金色に光輝くまぶしさであったといわれています。

しかし、大仏殿は地震で壊れ、その後再建されるも災厄によって失われ、豊臣家滅亡後は、豊国神社、豊国廟などと共に、徳川家康によって破壊されました。

お隣の豊国神社も明治になってから再建されたものです。

方広寺大仏は、天保14(1843)年、尾張信者によって木彫半身大仏が再興(高さ11メートル)され、あまりしられていませんが、実は近年まで存在していました。

昭和48(1973)年3月27日火災によって焼失し、その後、現在まで再建されていません。

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大仏殿石垣 

当時を偲ぶ遺構として、まずは、このとてつもなく大きな「大仏殿石垣」をご覧いただきましょう。

大仏殿石垣 

石垣というにはあまりに大きな高さ2メートルを超える巨石群です。

豊臣の鐘 

境内には当時のものは、豊臣家を滅亡させる口実となった問題の鐘が残っているのみです。

君臣豊楽国家安康 

この鐘は、家康が秀頼と淀君に勧めて再興させた大仏とともに鋳造したものです。

そこに刻まれた「国家安康君臣豊楽」の銘が「家康の名を2分して国安らかに豊臣を君として子孫繁栄を楽しむ」意味だと言いがかりをつけ、大阪冬の陣のきっかけとなったものです。

この鐘の内側には白いシミのようなものが浮き出て、淀君の幽霊であるといわれています。

鐘楼は柵に囲われて中へ入れないようになっていますが拝観料100円で、鍵を開けて中へ入って見学させてもらえます。

その際は鐘の内部もよくご覧になってみてくださいね。

耳塚 

また、豊国神社と方広寺のすぐ前に、歴史の負の遺産「耳塚」があります。

秀吉は天下を取った後、海外に目をつけて朝鮮侵攻(文禄・慶長の役1592年~1598年)をしました。

敵兵の首のかわりに耳や鼻を切り取って持ち帰り、この塚に埋めて石塔をたて供養したものです。

韓国からの旅行者がここに立ち寄っておられるのをよく見かけます。

そういった方にこの前で会うと、日本人であることが、なんだか恥ずかしい気持ちになります。

隣のお国に対していかにひどいことをしたか忘れない為の戒めであり続けてほしいものです。
 

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最終更新日  2009年02月10日 00時33分21秒
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