「理解」という言葉をめぐって・その十六
私は理解が普通考えるほど簡単なことではないことをくどいほど、繰り返し述べてきていますが、それは誰よりも「正しい理解」を望んでいるから、なのですね。当然と言えば当然のこの前提が、いつの間にか忘れ去られてしまう。何を小難しい屁理屈めいたことを、ほざいているのか!? というようなことに、どうしてもなってしまう。正しい理解とは、どういうことを意味しているのか?それが正しいとか、良いとか悪いとか、そういう価値評価以前に、先ず有りの儘をそっくりそのままで受け止め、頷いてもらいたい。唯それだけなのですよ。肯定的受容というような表現を用いると何だか、ご大層な印象を受けるかもしれませんが、この単純な、しかしいかにも人間的な頷きが私たちにはとても必要であり、大切なのですね。 冷ややかでない、暖かな、優しい眼差し、と言葉を改めてもよい。しかし、「おれおれ詐欺」が横行し、他人を見たら泥棒と思えというような世相が行き着くところまで、行き着いてしまっているような、ささくれ立った人心の荒廃の極みの昨今ですから、そのような生ぬるい、楽天的に過ぎる物言いは場違いなような錯覚に陥ったりしますね。ではありますが、悪や害毒、本当の鼻抓み者は相対的な少数者であることを固く信じて、人間性の全体にまで厳しい、冷血漢のような、理解の無い視線を向けることだっけはくれぐれも慎みたいものと、しみじみ思うのです、実際。理解の対象を大宇宙や、天体、地球、月、原始の地球、生物の誕生、などなどの大きくて壮大なスケールのものにまで広げて、考えてみるのも、この際考察の一助になるのではないかと考えます。例えば、「源氏物語」の主人公光る源氏や、絶世の美女と讃えられる小野小町にしても、正しい理解よりは誤解や曲解、見当違いの解釈や、無責任な放言の山に阻まれて、正当な理解とは程遠い場所に追いやられている、と強く感じる次第。誰かが最初に、彼や、彼女に対して真摯な関心を抱き、注目する。はてな?どうも様子がおかしいのでは……。そこが、出発点であり、最も重要な事柄なのであります、実に、実に!