「理解」という言葉をめぐって・その二十四
霊魂などという言葉を突然に持ち出したなら、現代人の大半は「プッ」と吹き出して、そんな化石化した死語を持ち出した私を軽蔑して、その後は全くこちらを馬鹿にして、もう何を言っても相手にしてくれないかも知れませんね。しかし、しかしです…。霊魂の存在をあなたは全く信じてなどいないでしょうか?辞書によると「その人が生きている間はその体内にあってその人の精神を支配し、死後も存在しいろいろな働きをすると考えられているもの」を意味しますが。 考えられている、とありますから、考えることは個人の自由ですから考えること自体をどうこうする事はできません。ただし、軽蔑して無視する自由も相手方に与えられている。しかし、本当にあなたは霊魂の存在を頭から否定できているのでしょうか?合理的な思考法を身につけている現代人の沽券にかけても、不合理な迷信に信を置くなどということは、断じてできない。第一に証明ができないではないか、科学的な、云々。 私は、草加の爺はこんな風にも思うのであります。つまり、人間というものは対象が合理的で確かなものであろうが、反対に矛盾に満ちて、怪しげな物であろうが、とにかく何物かを信じたいのであります。そして己の心の安定を得たいのであります、何よりも先に。如何でしょうか? 大昔、世界に共通なプリミティブな人類は自分たちが存在するこの宇宙の神秘や不可思議さに、度肝を抜かれてひたすら驚嘆し続けていた。大自然の恐ろしさ、不気味さ、不可解さ、そしてまた、驚嘆すべき素晴らしさ美しさ、豊饒さに我を忘れるほど心を強く、強く打たれ、心底から湧き出してくる畏敬の念に黙って頭を垂れるよりしようがなかった、実際のところ。 しかし、慣れというものは恐ろしいもので、次第にそれらに対する関心が薄れ関心の対象が自分自身へと、つまり人類のあり方の驚異的な側面にのみ注意と関心が集中する事態が到来した。神が死に、人間万能の思想が世間を席捲し尽くしてしまった。すべてが当たり前のこと、自明のことであるいった驚くべき錯覚が私たちの頭脳を占領して、久しくなっています。 霊魂などと、時代錯誤も甚だしい死語を一体、どのような魂胆があって今更らしく持ち出してきたのか。このブログの心の寛大な読者でさえ、理解に苦しむといった訝しさを隠すことができないでしょう。尤もなことかも知れません。しかし私たちが存在する宇宙の本質的な神秘が依然として変わらずに存在する以上、私たちは周囲の不可思議さから目を逸らして良いはずのものでもありますまい。 私たちが生きて、日々活動し続けている不思議を何一つ、根本的には解明できていない現在、過去の人間がその本質に与えていたひとつの回答のヒントを頭から否定し去って良い筈もないのです。最新の宇宙物理学の成果から言うとビックバンに始まる私たちの宇宙の根源をシュミレーションすると、何も無かった「無・真空」から、有が生じた、という驚くべき結論に行き着くとか。 これでは、原始人の迷信以上に「信じがたい」科学的・合理的な立論になってしまうではありませんか…。