運命、または宿命について…。
運命だとか、宿命だとか、この様なブログで軽々にテーマにするには余りに「重すぎる」話題ではありますがしかしながら、私・草加の爺としては今差し迫った、身近なものとして考えざるを得ない立場に「追い込まれている」。辞書によりますと運命とは、人それぞれの身の上に、生まれつき定まっていて、変更が許されないものと考えられている、幸・不幸などの巡り合わせのこと。また、宿命とは「生まれる前から定まっていて、どうにもならない運命」で宿命論とは、一切の現象はそうなるように予定されていて、思う通りに変えることはできないとする説。 さて、私・草加の爺はこれまで一応の知識として運命なり、宿命と言う言葉を心得ておりましたが、正直、あまり重大な事として捉えては居りませんでした。つまり、他人事として考えていた。ある種の人には運命とか宿命が、とても他人事とは考えられない、非常に身近な問題として「突如」浮上する場合もあるだろう。そんな風に、一寸ばかり距離を置いてこれらの言葉を「漠然と」意識していた。ところが、何故だかはっきりしないのでありますが、これまでの七十年余の自分の人生を振り返って見て、運命、ないしは宿命にしっかりと捉えられて、ほかのコースには足を向けることが「不可能であった」自己の生き方が、くっきりと浮き彫りになった。なんて自分はラッキーであり、「神の祝福を受けた好運者」なのかと、思わず知らず唸ってしまった―。何とオメデタイ男か! そんな風にお感じになられますか?若い頃の、つまり未熟な文学青年を気取っていた当時の私が、70歳を過ぎた老人がこんなことを口にするのを耳にしたならば、きっとそう思ったに相違ない。ですから、運命の不思議さを思わずにはいられないのであります、はい。 さて、さて、実は「ラッキー」であり「好運な人」は私だけではないのでありましてこの世に生を享けた誰もが、例外なくそう言う存在者として産まれ出ている。そうです、只の一人も例外がないのであります、実際。数学の世界ではありませんから、この事の「万人が首肯する証明」は不可能ですから、このことには今は深入りしませんがたとえば、「バカ者に対して、相手がバカであることを納得させるのは不可能」とでも言い添えておけば、解るお人には分かっていただける。如何…。 つまり、誤解を恐れずに直言すれば、私たちは自分が「本来は」世界一恵まれた幸福者なのだと納得するために、毎日を生きる。それが、正しい、そして唯一の人生に対する態度なのであります、実際のところは。如何でしょう……。