自分の過去に 習う 十三
恋する者の心は限りなく優しく、また謙虚である。彼は自分自身を飽くまでも無力( 事実、彼には金も権力も無い ) であり、見窄らしいし、何の取り柄もない( だから、失恋した ) 孤独な男と感じていた。 可哀想で、哀れな女である明子は、そんな男の彼が愛するのに如何にも相応しいとも、考えたのだ。が、当の明子は自分を可哀想とも、況してや哀れなだとも、当然思っていない。そして、横川が明子を愛したようには、彼を愛しても、恋してもいない。 明子は、横川を結婚の相手として不足がないと評価し、彼の自分に対する態度がこの上もなく優しいのに、満足していた。 この場合の明子の自然さに比べて、横川の側の状況がなんと異常に感じられることか…、俺には自分が経験した事の様に、ありありと思い浮かべることが出来る、待ち合わせ場所、多分、小綺麗な喫茶店で、明子を待っている彼の姿と、その心の動きとを……、約束の時間が十分過ぎ、二十分過ぎ、三十分過ぎても、明子は現れない、何か事故にでも遭ったのではないだろうか、いや、急ぐつもりでタクシーに乗ったのだが、道が混んでいて……、?? それにしても遅い、彼女の家へ電話を入れてみようか、いや、いや、もう少しだけ待ってみよう……、あっ、ひょっとしたら約束の時間を間違えたかな、いや、そうではない筈、昼食を一緒にしようと言ったのだから間違いなく午後の一時半だ、本当にどうしたのだろうか、もしかしたら場所を勘違いして、どこか他の店で同じようにイライラしながら、僕を待っているのかも知れないぞ、もし、そうだとしたらどうしようか…、しかし考えてみるまでもなくそんな事は有り様はずもないことだ、この店、前回にデートした喫茶店の「ポエム」と言ったのだから、やっぱり彼女の家に電話してみようか……、そうだ、もう一杯コーヒーを注文しよう――、きっと何か事情が、よんどころ無い事情が出来て、電話で連絡しようにもこの店の電話番号を調べようにも時間的な余裕がなくて、……、やっぱり、家の方に電話してみよう、……、あっ、出た、お手伝いさんの声だ、お嬢様も、奥様もお出かけで御座います、か、行き先も分からない、仕方がない、もう少し待つとしよう、そろそろ、一時間が過ぎてしまう、どうしたのだろう、待てよ、日にちをを間違えたのかもしれないぞ、明日の日曜日と、でも、今日の土曜日は偶々仕事が入っているが、午前中で終わるからと言うので、午後の一時半に時間を決めたのだし、明日と間違えることはないと思うのだし、それにしても一体どうしたと言うのだろう、もしかしたら、こんなに遅いのは約束を忘れてしまったのかも知れない、うっかり忘れてお母さんと一緒に買い物にでも、或いは、もしかして途中で男友達と出会って、その男性が昔の恋人で…、いや、いや、下らない想像はよそう、しかし、いずれにしてもこんなに待って来ないところをみると、もう来ないだろう、でも、交通事故などでなければよいが…、あと少し、あと五分だけ待ってみよう、やっぱりダメだった、もう帰ろうか、しかし、帰った直後に現れたら、どうしよう、困ったな、困ったな…、あっ、明子さんだ、来てくれた、本当によかった……、 「御免なさい」と明子が少しも悪びれずに一言、「いや、良いんだ」と横川、彼は心配と不安で精神的にクタクタになっている自分を、一瞬にして忘れ、腹も立てずに明子を受け入れる、彼女は必ず約束の時間に三十分以上は遅れ、彼はその都度強い心配と不安に心を悩ませながら、明子を根気強く待ち続け、「御免なさい」を言う恋人を素直に許した。 明子を待つことは横川にとって一種の拷問に等しかった。しかし、その拷問の儀式に耐えることが、明子への愛情の証明であるとさえ、彼は思いつめた。それは彼女が、可哀想で哀れな女が、自分をほかの誰でもない、この横川慎二という男を必要としている、と彼は信じ込んでいた、以上は、彼女を愛する彼としてはむしろ当然のことと考えたのだ。が、彼は知った、恐らくは婚約した直後に、正確に言えば婚約という儀式を経験する過程で、彼は彼女や叔母が自分という人間をどのように眺め、如何様に評価し、どう理解したかを。そしてまたそのように見て、評価し、理解した彼に何を真に望んでいるのかを。 年齢二十三歳、容姿端麗、身持ち良く、品行方正、短大の英文科卒、特技は英会話、茶道・活花・日本舞踊の素養有り、家庭裕福というのが、彼以外の者皆が正当に理解し、把握していた明子の「正体」であることを。彼はこの時に初めて、明子との結婚の真実の意味合いと、自分が現に置かれている状況の何たるかを客観的に、つまり常識のレベルで、正確に理解できたのである。 こんな筈ではなかったと横川は思い、同時に急激な強い焦燥感に駆られた。もはや遅いのだった、取り返しのつかないことになってしまったと、感じたから。しかし、彼は彼女を全く誤解していただろうか、否である。 以上の真相を悟った今でさえ、彼の明子に対する気持ちや感情は、全然変化がなかった。とすれば、彼は唯彼女の或る部分を、( それは明子本人にとっては殆ど本質的と言える重要な部分なのだが )そのある部分を知らなかっただけに過ぎない。が、彼の犯したそのミス、余りにも重大すぎる過失は、決定的なものだった。 明子も叔母も、横川同様に彼が自分では自分の本質と考えている ある部分 を知らない。と言うよりは、その必要がないからこそ、その必要がなかったので、知ろうとしなかった。だからそれは、ミスでも過失でもない。それが、世間の常識というものだった。 彼、横川なる人物は、客観的に突き放して言えば、人を愛する時に、一般的ではなく、異常な強さを以て愛し過ぎる性癖と、過剰さを発揮し、同時に自己の愛情に対して、余りにも献身的・自己犠牲的で有り過ぎるのだ。悪いとすれば、その様な彼の性癖や過剰さなので、誰を責めるわけにもいかない。が、この儘で明子との交際を続け、結婚してはいけない。そう彼は強く感じ、激しい心の動揺を覚えた…。